秦の商鞅(しょうおう)から学ぶ『法』のチカラ。その5=法の重要性
前回のまたまた続きです。
なんか長くなってすみません。
こんにちは。
ケイジ4世のターンは続きます。
前回は『第一変法』についてお話しました。
今日は今回の本題である『法の重要性』についてです。
最後です。
(なんか寂しいですけど。。この話スキだったので。。)
✅強国への歩み
商鞅の第一変法から10年経過すると、効果は絶大なものになります。
夷狄の文化が根付いていた昔の秦では、中央文化のようなスマートさはなかったと言っていいでしょう。
国はよく治まり路上の落とし物を拾う者もいなくなった。
とされています。
道徳的なものが根付いてきたというようなことです。
田畑も見事に開墾されて、兵も強化されて、人民の暮らしもよくなり、強国の仲間入りしたと言っても過言ではないほどです。
はじめ新法に対して不満を漏らしていたひとが多くいましたが、その結果を見て手のひらを返して賞賛の声を揚げる者もいました。
商鞅はそのような者に対して「世を乱す輩」として、容赦なく辺境の地へ流した。
それにより、商鞅に新法に、いや商鞅に口を出すものも居なくなって言ったようです。
なんか独裁者の一面が出てきてしまいます。
この頃に咸陽に王宮を建設し雍からこの時には遷都しています。強国にするにはそれなりの宮殿が必要というわけでした。
『お笑い芸人の売れるためにいい部屋に住む』的なことをテレビで見たことがありますが、なんか似てますね。
その他軍事的にもその時の最強国である『魏』を破るなど、さまざまな功績を持って、『商・於』の土地15邑に封ぜられ『商鞅』と呼ばれるようになります。
✅商鞅の最後
この頃から独裁者の顔を見せてきている商鞅は『第二変法』を発します。
この変法は井田制の改革や世帯の見直しなど、税の増加と集権の狙い強かったようです。
新法に慣れてきたことで、この時の変法に対しては不満の声が少なかったようですが、実際のところは『口を出せなかった』ということではないかと思います。
そらからまもなくして後ろ盾である孝公が没します。
それに変わって即位したのが『恵文王』です。
恵文王は側近の処罰に対して不満を持っていて、それにより商鞅は結果として追われることになるわけですが、他国へ亡命しようと考えて出発しましたが、それを遮ったのは『商鞅によって整備された新法』でした。
泊まろうと立ち寄った宿の亭主は商鞅である事を知らず、
「商鞅さまの厳命により、旅券を持たないお方はお泊めてしてはいけない法律という事になっております」とあっさり断られた。
「法を為すの弊、一ここに至るか」
(ああ、法律を作り徹底させた弊害が、こんな結果をもたらすとは…)
と商鞅は嘆き、自分の領地で兵を集めて交戦しますが敗退して処刑されてしまいます。
✅法のチカラ
商鞅が亡くなった後も秦国は『商鞅の法』を続けていき、キングダムで有名な始皇帝の礎を作っていくことになります。
孝公が即位してから没するまで、在位24年しかないかなで、中国統一の基礎を作ったといえます。
孝公と商鞅の功績はもしかすると始皇帝よりもすごいかもしれないと私は思っています。
✅まとめ
一人の商鞅という為政者がもたらした功績を通じて、
▶️発想力
▶️プレゼン力
▶️実行力
▶️規則のチカラ
などを私なりの解釈で説明させて頂きました。
歴史から学べるものは山のようにあります。
今後もまた誰かを取り上げながらお話できればと思います。
ありがとうございました。
では、また。