国士無双『韓信』から学ぶ▶️国士無双(こくしむそう)とは?
こんにちは。
ケイジ4世のターンです。
今日は、国士無双『韓信(かんしん)』についてお話しします。
国士無双って知ってますよね。
では、韓信はご存知ですか?
国士無双。
また、麻雀やってる人もやらない人も、麻雀の役で聞いた事があると思います。
(私は麻雀わかりませんが、、)
字牌7種と一九牌6種を1枚ずつ揃え、そのうちのどれか1種をもう一枚加えて雀頭として、上がるとかなり点数が高くなります。
▼ちなみにwebio先生によると
それっていつの時代?中国?
今から2200年くらい前の中国。
あれ?秦の始皇帝?キングダムの時代?
と思った人はかなり中国史通です。
今までクローズアップしてこなかった春秋戦国時代がキングダム人気のおかげで皆さんの知るところとなったのは本当に嬉しい限りです。
で、今回はその『秦(しん)』時代から次の『漢(かん)』にバトンタッチする時のお話です。
漢の三傑。
秦が統一した時代は二代だけです。
始皇帝が没して二世皇帝になると一気に後退します。
そのため各地で反乱が起きます。
その時に1番大きな反乱が『陳勝呉広の乱』で、その反乱に乗じて参加してきたのが、『項羽と劉邦』で有名な両名です。
そのうち劉邦(りゅうほう)は統一して『漢(かん)』という国を作ることになります。
その建国には3人の功臣によるところが大きいと言われています。
▼張良(ちょうりょう)
▼蕭何(しょうか)
▼韓信(かんしん)
という功臣が挙げられ、3人のことを『漢の三傑』と呼びます。
詳しくはまた別の機会とします。
で?韓信って?誰?
韓信はもともと身分の低い家柄で、貧乏で素行も悪く働かないで人の家に居候の身であったりと、地元では爪弾き者だったようです。
めちゃくちゃどうしようもない輩だったわけです。
ただ、韓信はプライドが高く向上心はかなりあったため、独学で兵法や学問を学び、剣術の腕も学んだとされています。
韓信が世に出るきっかけは『陳勝呉広の乱』に乗じて参戦し、劉邦の敵である項羽の元に仕官しています。
そこでは『郎中』という役職についています。
でもおかしいですよね。
そんなどうしようもない輩が、一兵卒ではなくなぜそんな役職につけたのでしょうか。
韓信は出世欲と名誉欲が人一倍強かったようで、
項羽のところではそれ以上出世できないと判断した韓信は、その後劉邦のところへ移ります。
チャンスを掴む。
韓信は劉邦のところに来てからもあまり良い待遇を受けていませんでした。
項羽のところにいた時と同じ待遇で安易に登用してしまっていました。
これは両者が相手の力量を、韓信という個人をきちんと見ずにイメージで判断してしまったことによるものです。
そのため、韓信としては出世をしたいわけですから脱走を計ったというわけです。
そこを捕縛され連行されたときに問答したのが蕭何です。
蕭何は問答をしていくにつれ、韓信の能力、素質に類い稀ない光を見つけてしまい、劉邦へ推挙することに至ります。
その時、『将軍』として向かい入れるように劉邦は譲歩するのですが、蕭何は『大将軍』として登用することを進言し、渋々劉邦は『大将軍』として大抜擢を果たします。
なんのツテもない一兵卒を将軍に抜擢することも相当な異例なことのはずですが、『大将軍』です。
ちなみに『大将軍』というのは国全体の兵を指揮する事が許された軍事のトップです。
人を見るチカラ。
こうして蕭何の進言により大将軍となるわけですが、ここで注目したいのは『蕭何の人を見るチカラ』です。
①人を見るチカラ
それまで誰も彼の異質の才能を見出す事ができなかったりわけですが、行動や会話からそれらを引き出し能力の底を察して推薦する。
②人を認める器量
人の能力を見出しても認める事って意外とできないし、ましてや自分より上の地位に推薦するというのは、なかなか出来ることでは無いと思います。
蕭何は徹底的に影になることで劉邦を支えた功労者というわけです。
そんな蕭何は論功行賞の際に1番の功績と称されています。
貫く信念。
韓信の話に戻りますが、見出す蕭何のような存在があったから世に出たのは間違いありません。
でも、ここでは『自分を信じ抜く信念』に驚かされます。
努力もしてきたでしょうし、自信もあったのでしょうが、それまでの韓信の素行も悪いしなんなら評判もすこぶる悪かったのが事実としてあります。
実際それまで実績はなかったわけですからチャンスが転がって来るのは稀中の稀でしょう。
でも、自分を信じ抜いた。
そして何度も行動しています。
だから、チャンスが訪れたということだと思います。
その後、彼は漢統一に大きな役割を果たすことになります。
そらはまた次の機会にご紹介します。
ではまた。
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