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福沢諭吉「小学教育の事 四」~道徳教育

要約

小学校で道徳心を養うために『論語』・『大学』を教科書として用いるべきだという意見がある。

日本の小学校の現状は、下層の人々の子どもが字や算数を習得すれば満足であるというようなものである。

技芸でも道徳でもこれを教えるにあたって順序を誤り場所を誤る時は、有害無益である。現在の小学校はレベルの高い技芸・道徳を教える場所ではない。

小学校の教育はいつ退学しても幾分か生徒が実際に役立つものを身に付けて、生涯の宝物となすべきであることが私の持論である。そのため、学校は庶民のために日常生活で使えることを学ぶ学校とよりレベルの高い学校に分けるべきだろう。

では上等の学校で儒教にもとづく道徳教育を行うべきかというと、私はそれには反対である。儒教の著しい欠点は、孝悌忠信の道徳一つのみで人生を支配しようとする気風である。これでは道徳のみで身を立てようとする者を生んでしまう。

何事も大切なのはバランスである。現状の日本では徳のレベルは余るほど十分であり、不足しているのは智である。文明の発展のためには、智を育成することに力を入れて智のレベルを徳のレベルまで引き上げて智徳のバランスを良くすることが大切である。

現代語訳

現在、世の識者が小学校の得失を論じて、道徳よりも技芸の教授を優先することを憂いている者がいる。例えば、天文・地理・物理・化学などは技芸である。孝悌忠信は道徳である。物理化学を学ん唱歌でも孝悌忠信の道を知らなければ、世の風俗は次第に悪化していくだろうと言って、もっぱら儒者の教えを主張し、あるいは小学校の国語の教科書に『論語』・『大学』などのような経書(儒教の経典)を用いようとする主張がある。

この説には非常に道理がある。人としてただ技芸のみを知り、道の何たるかを弁えなければ、ほぼ獣である。日本の現状では、今の小学校はただ下層の人々の子どもが字を学び数を知るまでの場所で、学校教育を修了し、一通りの筆算や帳面の付け方が出来るようになれば満足すべきものである。技芸も道徳も未だに気を配る余裕がない。

儒者に限らず洋学者たちもこのような事情については疎かである。小学校の教則は、様々なレベルの高い科目が盛り込まれ、技芸も完璧にしたうえに、画学・音楽・唱歌・体操などを教えようとするような内容だ。田舎の百姓の子に体操とは何事だ。草を刈り、牛を飼い、くたびれはてている子どもを、また学校に呼んではしご登りの稽古か、この上なく困難であると言えるだろう。

『論語』・『大学』の教えもまたこの技芸の様なものだ。今の百姓の子どもに、漢字の素読を授け、またはその講釈をしても、そもそも意味を理解できるものがいないだろう。双方にとって無駄になるだけである。古来、田舎でも物好きな親が、子どもに漢書を読ませ、四書五経を勉強する間に現実を忘れて、変人奇人と評判になり、生涯、身を持て余した者は少なくない。結局、技芸でも道徳でもこれを教えるにあたって順序を誤り場所を誤る時は、有害無益である。現在の小学校はレベルの高い技芸・道徳を教える場所ではない。

小学校の教育はいつ退学しても幾分か生徒が実際に役立つものを身に付けて、生涯の宝物となすべきであることが私の持論である。ゆえに、人民の貧富・生徒の能力に応じて、国中の学校も二つの種類に分けざるを得ない。すなわち、一つは庶民に日常生活で使えることを教える場所にして、一つは学者の種を育てる場所である。経済力があり才能があるものは、今の小学校にとどまるべきではない。あるいは最初からこれに入らず上等の学校に入るべきだ。地方に中学校が必要なのも、これが理由である。小中大といえば、順番に上がるべきのように聞こえるが、人の貧富・才能に従って初めから区別するかあるいは入学後に区別を設けざるを得ない。世の中の大勢はこれをどうすることも出来ない。

以上のように学校の種類を2つに分けて、上等の学校には、道徳の教えに四書五経を用いるべきかというと、ここにおいても私に少し意見がある。道徳の教えも人の教育の一部で、決して欠くことが出来ないということは言うまでもない。例えるなら人の生活に塩を欠くことのできないのと同じである。そして、その教えの種類には、儒教・仏教・神道・キリスト教などがあり、たいてい同じようなものである。しかし、日本では古来より儒教が最も盛んであったゆえに、まず慣れているものを用いようとして、仮に儒教にしたとして、今の儒者にそのまま得意の四書五経を講義させても道徳の教えとして十分ではないだろう。

聖人の本意は後世からはかり知ることは出来ないものとしてしばらくこれをさしおいて、聖人の道と称して数百年・数千年も儒者はこれを人に教えて、人がこれを信じている様子を見れば、欠点が非常に少なくない。その中でも特に著しい欠点は、孝悌忠信の道徳一つのみで人生を支配しようとする気風である。言い換えると、塩だけの味で人に食べ物を作ることに異ならない。塩は食べ物に大切で欠くことが出来ないものと言えども、一つの味だけで生きていくことは出来ない。

思うに孝悌忠心1つを以て道徳とすることは聖人の本意ではない。また、後世の儒者にしてもその本意に背いていることを理解して、これを説くものがいるといえども、残念ながら世の人々の受け取り方は、道徳のみを身を立てる資本として、無芸・無能でもこれを気にしない者がいるようだ。その有様は著者と読者との間で誤解が生じたり、教育者と学ぶ者との間で意味が通じなかったりするようなものだ。先に誤解が生じて意味が通じないならばその本意の性質に関わらずこれを不十分であると言わざるを得ない。

そうとはいえども世の中の事はすべてバランスが大切であり、このバランスがある時は何事においてもほとんど害悪はない。古来日本の教えを道徳と技芸の2つに区別して、そのバランスを明らかにすれば、前者が重くて後者が軽いと言わざるを得ない。すなわち徳が余り過ぎて智が足りない状態である。私はもとよりこの徳の量を減らそうと言っている訳ではない。できるだけ不足している智の量を増やしてすでに余りある徳の量と等しくすることによって、文明の度合いを一層高めたいと願っている。ゆえに今の儒者も一つの道徳で安心するのではなく、できるだけ智学に志し、智徳のバランスを得て、はじめて四書五経を講義するべきである。

考えたこと

① 生徒の現状認識と順序の大切さ

 いくらレベルの高いことを教えても生徒がそれを理解することが出来なければ無駄である。当たり前だが、そこでまず大切になってくるのが生徒にあったレベルの内容を教えることである。だけど、これだけでは教師の役割としては半分も果たしていないと思う。次に大切になってくるのは高いレベルを目指すために順序だてて生徒に教えたり、取り組ませたりすることである。私としてはこれを生徒の現状に合わせて組み立てたり、生徒にその順序を理解させることが一番難しいことだと思う。逆に言うとこれが出来る先生は生徒を伸ばす力のある先生だと思う。
 教科指導においても、生徒指導においても「順序を誤り場所を誤る時は、有害無益である」ことを忘れずに、教員や親は行き当たりばったりではなく、自分の頭の中に指導の道筋をある程度付けてから行動するべきである。

②智徳の進歩が文明の発展につながる

 智徳の両方の進歩が文明の発展へとつながるというのは福沢の基本的な文明観である。『文明論之概略』において日本では私徳に対して公徳が弱いということを指摘してはいるが、福沢の認識では当時の日本人の徳は十分に進んでいた。福沢の当面の課題は西洋から比較的劣った「智」のレベルを引き揚げて日本の文明の発展、ひいては国の独立を守ることであった。福沢は道徳を軽んじている訳ではないが、忠孝に偏った道徳を学校教育によって教えこもうとする儒教主義者を福沢は度々批判した。次回は儒教にもとづく学校教育を批判した福沢の『徳育如何』を紹介したいと思う。

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