見出し画像

『憶測で物を言うな』は正しいのか?説明責任放棄への反論

松本人志の沈黙が問うもの

「憶測で物を言うな」。この言葉は、一見すると公正で正しい主張に聞こえる。しかし、本当にそうだろうか?松本人志氏が性加害疑惑への説明責任を一貫して回避している現状を見ると、この言葉が「不誠実な沈黙」を正当化するために使われているのではないか、という疑念が生じる。説明責任を果たさない者に対して、「憶測で物を言うな」という主張は本当に社会的に正しいのだろうか?

むしろ、説明責任を果たさない沈黙こそが問題だ。今回は、このテーマについて深く考えてみたい。

1. 「憶測で物を言うな」の欺瞞

「憶測で物を言うな」という主張は、一見すると無実の人を守るための倫理的な立場に見える。しかし、その裏側には大きな問題がある。この主張は、説明責任を果たさない人間にとって都合の良い隠れ蓑になり得るのだ。

例えば、松本人志氏の場合、性加害疑惑が報じられながらも、一切説明責任を果たしていない。それどころか、記者会見も開かず、自らの立場や行動について何も語らないまま。このような沈黙が続く中で、「憶測で物を言うな」という声が上がることは、不透明性を助長する結果につながる。

さらに重要なのは、この主張が権力構造の中でどのように機能するかだ。社会的影響力のある人物が沈黙することで、その立場の弱い被害者や声を上げた人々が「単なる憶測」として切り捨てられる危険性がある。つまり、「憶測で物を言うな」という主張は、一見すると公正だが、その実、不誠実な沈黙や不透明性を守るために使われている場合もあるのだ。

2. 裁判との比較:黙秘権と説明責任

裁判では、被告人には黙秘権が認められている。これは自己負罪拒否特権として重要な権利だ。しかし、その沈黙が完全に中立と見なされるわけではない。イギリスでは、黙秘権行使が不利な推論につながる場合がある(セクション34)。つまり、合理的に説明できる状況で沈黙することは、それ自体が疑念を強める要因となる場合がある。

社会的議論でも同じことが言える。疑惑の対象者が説明責任を果たさない場合、その沈黙は「何か隠している」と解釈されても仕方ない。松本氏の場合も、多くの状況証拠や証言が存在しているにもかかわらず、一切説明責任を果たしていない。このような状況では、「憶測」という批判ではなく、「合理的推論」として非難されるべきだ。

3. 憶測による非難が正当化される条件

では、「憶測による非難」が社会的に正当化される条件とは何か?以下の3つの条件が挙げられる

  1. 説明責任の重大な欠如
    疑惑の対象者が公的立場や影響力を持ちながら、一切説明責任を果たしていない。

  2. 状況証拠の存在
    複数の証言や矛盾する事実から合理的推論が可能である。

  3. 社会的利益への貢献
    非難によって事実解明や透明性向上、不正行為抑止につながる。

松本氏の場合、性加害疑惑に関する複数の証言や報道がある。また、一部ではスマートフォン没収や証拠隠蔽といった組織的対応が行われたとの指摘もある。このような状況証拠が揃っているにもかかわらず、彼自身は記者会見などで一切説明責任を果たしていない。このケースは上記3条件すべてに該当する。

4. 『憶測』という言葉への再考

「憶測」という言葉はネガティブに使われる。しかし、それ自体は悪なのだろうか?特に状況証拠に基づく合理的推論は、単なる噂話とは異なる。「憶測で物を言うな」という主張こそ、不誠実な沈黙への免罪符となり得る。

憶測合理的批判根拠なき噂話状況証拠に基づく推論感情的な攻撃透明性と説明責任を求める建設的な圧力個人の印象操作社会全体の利益を目指す行為

松本氏への批判の多くは後者に該当する。彼が所属事務所とともにスマートフォン没収や証拠隠蔽を組織的に行ったとされる状況証拠は、単なる「憶測」を超えた合理性を持っている。

5. 沈黙が招く社会的コスト

説明責任を回避する人物を「憶測で物を言うな」で守ることは、以下の社会的コストを生み出す

  • 不正の温存
    疑惑が放置されることで、同様の行為が繰り返されるリスクが高まる。

  • 信頼の崩壊
    不透明さが続くことで、社会全体への不信感が広がる。

  • 被害者の孤立
    声を上げた人々が「憶測」というレッテルで黙らされる構造を強化する。

6. 結論:必要なのは「健全な懐疑」だ

「憶測で物を言うな」という主張は、説明責任を果たさない者にとって都合の良い免罪符だ。松本氏のケースが示すように、「沈黙する権利」と「説明責任」は表裏一体であり、前者を行使するならば後者の放棄による批判は甘受すべきだ。

私たちが求めるべきは、「無根拠な憶測」ではなく「状況証拠に基づく健全な懐疑」だ。説明責任を果たさない人物への批判は、社会全体として透明性と公正性を守るために必要不可欠なのだ。

いいなと思ったら応援しよう!