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加害性と自責の念、そこからの救い

先週の投稿で、私の中に昔からあったネガティブな思考・感情に加害者意識という名を与えた。これを自覚してどう捉えることにしたかここに書いておこうと思う。

ネガティブな感情のこと

幼少から現在に至るまで私は幾度となく他者から言動を非難されたり諌められたりしてきた。誰かを悲しませるようなこともあった。
そうした体験から私は漠然と
 「俺はすぐ人の気分を害してしまう」
 「俺が人(特に異性)に抱く好意・恋心・下心は悪いものだ」
などと思い込むようになった。始まりは思春期の初め頃のことだ。

こうして自分自身に抱いたネガティブな感情(自意識)を私は長らく劣等感罪悪感として長らく捉えていた。悪いことをしてしまったから己には罪があるとか、己は劣っているから人を喜ばせられないのだと思っていた。

この感情を払拭しようと私は努力してきた。罪の意識から許しを得るために努力して立派な人物になろうとしたし、善良なキャラでいようともした。

私の悩みは一言で言えば劣等感であると思っていて、それを跳ね返そうとしていた。それで10代20代を通じてある程度のことを成し遂げもしたが、このネガティブな感情(自意識)は心の中にほとんどそのまま残り続けた。

数年前のnoteへの投稿はまさにこの状態で書いていた。年々歳を取っていく中で、仕事や趣味でそれなりに充実した日々を送っていたのに精神面で年齢相応のところまで成長したように感じられずにいた。

そこから時が流れて私は自己理解プログラムを受講し、自分の短所のカバーの仕方得意なパターン心の底で望んでいる生き方など見つけて、さらには20年前からの理想・願望を再発見することもできた。

しかしそれでもなお、心の中に潜む後ろめたい気持ちはなくならなかった。なんとなく自分が素の感情や本心を表に出せば人を怒らせたり悲しませたり失望させたりしそうな気がした。

捉え方の変化

このことをある人に相談して
「本心を表にして人を悲しませたり失望させたりしたときって、具体的にはどんなことがあったんですか?」
と問い返された。

言われてみればそのようなケースは一度もなかった。

罪悪感と言っても具体的に何に罪の意識を持つか自分でも分からなかった。
さらには劣等感についても「どの点で自身が劣っていると捉えているか」を思い返してみて、挙がった点について「それは己にとって大事なことなのか」と問うとそうでない気がした。

明確な対象・理由もなく劣等感や罪悪感を抱くとはどういうことか。
このあたりで劣等感・罪悪感という言い方に疑念が湧いてきたように思う。

その後偶然Xのタイムラインで見かけた投稿加害性という着眼点を得た。そうか、これかと思った。
私は具体的な事件や事実でなく「自分には加害性がある」「自分の加害性が怖い」という漠然とした印象から自己にネガティブな感情を抱いているようだった。これを言い表すなら被害者意識ならぬ"加害者意識"だった。

無闇に立派になろう、善良であろうとしたのも、その加害性を打ち消して許されたいと思ったのと無関係でない。具体的な事件や事実を理由としていないという点で、これは確かに劣等感・罪悪感と別の感情であった。

劣等感や罪悪感といった言葉は分かりやすかったから、過去には自分の悩みもそれだと信じて疑わなかった。ところが劣等感や罪悪感がなくなるような成功体験ができても、私の中では先述の通り大して何も変わらなかった。

このことに私は年単位で頭を悩ませていたが、元にあるのが劣等感や罪悪感でなく加害者意識なのだと捉え直したら途端に「それだ!」と思えた。
劣等感や罪悪感がなくなりそうな成功体験を経ても”加害者意識”はなかなか消えない。これは自分の悩みの正体が「既に起きたことへの罪悪感」でなく「これから出てしまうかもしれない加害性への不安」であるからだと仮定すれば納得できる。この種の不安にはほとんど向き合ってこなかった。

このような意識(ないし思考の習慣)がいかに植え付けられたかといえば、家庭環境や幼少期の体験の話になる。これはあまりに複雑で長い話になりそうなので省略する。ここで考えたいのはこの思考習慣をいかに扱うかだ。

そこからの救い

加害者意識なる言葉は使わなかったものの、これが元になって生じる感情のことをXでポストしたら素晴らしいヒントをいただけた。

それは私がこれまでにした貢献(他者の価値観を満たす行為)に目を向けるというものだった。

上記のポストや3ヶ月前の投稿にも書いたように、私は他者に貢献したいという気持ちが強いと自負している。しかし私は自らがこれまでにしてきた貢献を過小評価していた。このリプライをもらったことでそう気づけた。
少なくない数の過ちはあったが、それだけでなく今までにもある程度の貢献をしてきただろう。そのように思い直すと不思議と心が軽くなり、今まで怖くてなかなか言えなかったことも少しずつ言えるようになった気がする。

要は悪い面ばかりでなく良い面にも目を向けたことで全体の自己評価が変わったという話だ。もちろん悪い面(加害性)が出ないような工夫も必要であろうが、それとは別に全体を捉え直すのも大切だと思えた。今の時点で言えるのはそこまでだろう。

こちらのポストで述べたように、この件を正直かつ大っぴらに書いてみて良かったと思う。そして実を言うと昔からあった思考の習慣、自意識のことを相談した相手とは引用元のなるさん(@naru_mind)である。

彼女との対話では本稿の件以外でも色々と引き出してもらった。それがなければ自分の悩みを解消しようとする思考自体に目を向けられたか分からないし、その問題意識がなければ救いとなるポスト・リプライもなかった。
すごく個人的な事柄なのに、あるいは個人的であるからこそ伴走して一緒に向き合ってくれる存在がありがたい。このようなところでも私は一人で生きているのではなくいつも誰かに支えられているのだと思えた。

 (12/1 追記)今回書いた主題は、この動画の「7:18 怒りの感情に蓋をしてはいけない理由とは?」のパートで言われたことにそのまま繋がると思った。
ここで"感情の部屋"の喩えに出てきたKeep Outのテープが、私の場合には上で加害者意識と呼んだものに相当する。それならばこれまでにしてきた貢献に気づくことが私の怒りや悲しみの部屋に入る方法になるのか。なんだかこれが私にとって格別に自分に合った動画であるように思う。

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