村上春樹『納屋を焼く』と「既にある」意識
ひとりブックカフェです。
先日書いた「オリジナリティを詰める箱を作っている」で、オリジナルの小説作品を小冊子みたいにして置きたい、みたいなことを言っていたのですが、ここ何日かその作業をしておりました。
作品自体はもういくつかあるので、作業と言えば専ら表紙作りと、本文のレイアウトを組んで印刷すること。
以下がその表紙。
『さけぶとり』という作品のものです。建物の雰囲気にマッチするよう、「暗め眩め」を意識しました(ドグラ・マグラみたいなこと言っちゃった)。
まだ本の形に出来ていないので、出来上がったものはまた載せますね。目標はこれと同じ形式のものをとりあえず50冊。
で、作業に疲れたところで本を読んでいたのですが、それが表題にもある村上春樹著『納屋を焼く』。
僕は村上春樹の短編は一通り読んでいるのですが、長編をあまり読んでいなくて、去年の冬くらいからこそこそと読んでいるのですが、その流れで、少しスピリチュアルな領域について興味が湧きまして。
というのも、村上春樹の特に長編では、潜在意識、深層意識と言った領域に足を踏み込むみたいな展開が多いですよね?
そこからなんやかんやあって、パウロ・コエーリョ著『アルケミスト』のことを思いだしたりしたのです。望めば叶うってやつ。
「何かを強く望めば宇宙のすべてが協力して実現するように助けてくれる」
ああそう言えば「引き寄せの法則」なんてのもあったなあ、みたいな感じで、ちょっと改めてそういう世界のこと勉強してみようと思ったのです。引き寄せの法則っていうのはちょっと自分の人生にも心当たりがあったので。
そういう前提があって、今日は休憩のため少しだけ読書しようと思い村上春樹の短編に手を伸ばすと、かつて読んだときとはちょっと印象が違う。
おお、「スピリチュアルな文法」を頭に入れたことで着目する箇所が変わったぞ、と思えば、なんだか嬉しくなりました。
スピリチュアルな文法って何かっていうと、いわゆるスピ系ユーチューバーなどの動画を見ているうちに、この界隈でよく使われている言葉、特有の言い回し、というものがあるのだと知りました。
その一つが「既にある」というやつ。
でも僕、この「既にある」ってよく分かっていないんですよね。
それが、『納屋を焼く』を読んだときに「これってもしかしてめちゃくちゃヒントなんじゃない!?」って思える箇所があったので、この記事はその辺の話です。
その前に「既にある」という概念について、僕なりに説明してみようと思います。
「既にある」とは
よく分かってないなりに「既にある」を説明しますね。
これは、「望んだことは既に叶ってる」ということらしいのです。
は?叶ってないじゃん。口座に五億円入ってないじゃん。これで終了ですよね。
五億欲しいって思ってるよ? でもないよ? 既にあるって嘘じゃん、で終わりです。
いや待て待て、既にあるというのは、望んだ時点で宇宙のどこか、もしくはパラレルな世界のどこかには、あるのよ。ということらしいです。
宇宙のどこかとかパラレルワールドとか想像の世界とかにあっても実際に使えない五億円はあるとは言わないよ?と思いますよね。僕も思います。
しかし、「既にある」ことを知って、そこに波長を合わせれば、目の前に現れる、とかなんとか。ちなみに「波長」っていうのもスピ用語だと認識しています僕は。
こういう話を聞くとだんだん怪しくなるというか、スピリチュアルはこれだから……みたいに言われるのはこういう詭弁めいた結論になってしまうからかもしれません。
しかしここで切り捨てずにもう少し話を聞くと、「ある」って本当に思ってる?というカウンターが飛んでくる。
と、なんか小芝居を入れてしまいましたが、こういう話の展開がよくあるなというイメージです。
展開としては、結局主体的に行動を起こそう、みたいな結論になるパターンと、福の神はあなたを見ています、みたいなスピリチュアルを突き進むパターンがあるような気がします。
結局よく分からないでしょ?
そんでようやく『納屋を焼く』の話。
この、結局なんなん?という状態のまま『納屋を焼く』を読むと、引っかかる箇所があるんです。
蜜柑剥きのパントマイム
『納屋を焼く』の語り手は、パントマイムの勉強をしている女性と出会うのですが、彼女が蜜柑剥きのパントマイムを見せてくれます。
彼女の左手に蜜柑がいっぱい入ったガラスの鉢があって、そこから蜜柑を取り、皮を剥き、蜜柑を食べ、蜜柑の皮を右手の鉢に入れる、というパントマイムを数十分繰り返す。
パントマイムなので蜜柑も鉢もない状態でそれをやるわけですが、語り手は「君にはどうも才能があるようだな」と感想を伝えます。
彼女はこう返します。
どうでしょうか。
どうでしょうかと言われても困ってしまうかもしれませんね。
僕が言いたいのは、「既にある」というのはやはり僕にはよく分からないのですが、「ある」と思い込むことと、「ないことを忘れる」ことは似て非なるものであり、もっともらしく見えるのは「ないことを忘れる」振舞いの方にある、んじゃないかなぁー?ということです。
これは何だか、もう少しで腑に落ちそうな気がしませんか。何かもう少しで分かりそうな感覚というか。
いやもちろん、この先に「誰でも簡単に五億円でも何億円でも手に入る方法」が見いだせるわけではないのですが、「ある」と思い込もうとすればするほど、「ない」今にフォーカスしてしまう、というのはあると思うのです。
それなら、「ない」ことに対する意識を「忘却」というレベルまで薄めてしまった方が、逆説的に「ある」状態に近くなるのではないか。
そっちの方が自然で、普通なのではないか。
例えばフェイクの札束を金庫の中に入れておいて、そこに札束がいっぱい「ある」ことが普通って思えるようにする、という手法もあるそうです。
想像だけで札束が「ある」と思っていても、やっぱり「ない」わけですから、ないじゃん、やっぱりないじゃん、という「ない」意識ばかり強調されてしまう(そしてそれが現実化する)。だったら、札束は「ある」状態にして、それがある状態を普通にすれば、「ない」ことを意識せずに済む。
しかし、究極やっぱりないわけです。本気で思い込んだら、そのフェイクの札束を銀行に預けようとしたり、使おうとしたりしなければ嘘ですよね。
そうはならないわけだから、意識の底、というかがっつり理性で、それはフェイクとしっていることになる。だから結局「ない」を強調することになる。
ならば、「ない」という概念の方を無視した方が良い。「あるフリ」をするより、「ないフリ」をした方が一種の馬鹿々々しさが生じ、冗談めき、ぎこちなさがなくなる。
あるフリをしようと思うと「ない」ことが意識の上で強調されてしまう。だからパントマイムもぎこちなくなる。
しかし、「ないことを忘れる」ということは、意識の上で「あると思ってる」ということですよね?
つまり、同じことをしていても、意識がまったく反対なのです。よってパントマイムもうまくいく。
なんだか、この転換を知ったときに、僕は少し分かったような気がしたんですよね。
さてこれで、五億円が「ある意識」を体感できたとして、実際に五億円を手に入れることができるのかどうかっていうのは、全然分かりません。分かりませんっていうか、普通に考えたら手に入らない。
だけど確かに、「ない」って思っているもの、「不足」を感じているもの、「必死に得ようとしているもの」って手に入らないっていうのは、なんか経験的に分かりませんか。
よく聞くのが、「恋人とかは別にどうでも良いって思ってるときに限って簡単にできる」とか「子どもを諦めた途端に妊娠する」とか。
就職とか、住む場所(家)とかも、必死に探してるときより頭の片隅に入れといてどうでも良いなーってときに出会ったりしませんか。
スピリチュアルな文法の全てを鵜呑みにするのは勇気がいるけど、そういう不思議ってたしかにあるよな、って思うんです。
とまあこんな具合に、スピリチュアルな部分をちょっと考えた頭で『納屋を焼く』を読むと、突然消えたガールフレンドとか、そのガールフレンドの彼が「近々焼く」と言ったのに一向に焼かれない納屋とか、焼かれてないのに「焼いた」と言われることとか、「ある・なし」の曖昧さっていうもののムードを感じてちょっと不安な感情に陥る。
『納屋を焼く』の主人公が蜜柑剥きのパントマイムを見たときの言葉を借りれば「僕の周りから現実感が吸いとられる感じがして」「すごく変な気持」になる。
よろしければ皆さんも、少しスピリチュアルを履修して村上春樹を読んでみてはいかがでしょうか。読解フィルターの一つに過ぎないと思いますが、読みなおしの方もきっとご自分なりに面白い発見があると思います。
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