倚りかかりたいメランコリー
久々に価値観が迷走している。セロトニン不足か、冬のせいか。
思春期に拗らせたニヒリズムはずっと抱えて生きるものとしてきたし、調子のいい時はそんなに重くもなくて、重力みたいな存在なのだけど。メンタルが弱ると、とたん身体にかかる重力が増すように、ニヒリズムもまた重たくのしかかってくる。
調子がいいときは、うまくソクラテスが『よく生きよ』といったことを指針にして平気に過ごしていられる。人生とは、自身の心地よい『よく』を見つけ、その時々でバランスをとりながら生きることなのだと思っている。
ただ、調子が悪いと、このバランス感覚が悪くなるし、『よく』がぐあんと広がって、解像度が急に下がって、訳がわからなくなるのだ。
さらにもう一つの問題は、やはり、人間という生き物である以上、孤独が得意になれないという問題。
茨木のり子の『倚りかからず』を好んで何度も読んだけど、残念ながら、弱る時期には椅子のせもたれだけでは物足りない。恋人か、友か、家族か誰でもいいからもたれかかりたくて仕方ない。
思春期の少女の頃はその欲求を酷く格好悪く感じていたのだけど、三十路過ぎたらもはや開き直って、甘えてしまいたいのだと地団駄を披露してしまう。のり子先生、私はやはりそんなに強くはなれそうにないです。
私の好きな経済の話も、政治の話も、哲学、詩、宇宙論みたいな話も、残念ながら好んで聞いてくれる人は、いまだに見つからない。
私の周りはいつだって、テレビや恋愛、日々の忙しごと。仕事、給料なんて日常の話しか飛び交ってはいない。そういう世界に紛れ込んでしまった異物なのだと時々つきつけられる。人間皆、己を理解してもらえないのが普通だと思ってきたけど、それにしたって、自分の異物具合は際立ってるかもと思い始めたら始めたで、ひどく憂鬱で、あー孤独だわと、アイロニックに吐き捨てて、そんな自分にも嫌気がさす。また太宰の女生徒の女生徒のような書き振りになってしまう…
そのうち脳みそのセロトニンが増えて、調子が戻れば、この文章を読み返して、それこそ失笑する己も想像できる。それでもこうして書き綴ってしまうのは、
孤独に立てず、ノートの先の何かに倚りかかりたくてしかたないからか。
ああ、拙い