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「する」と「される」のあわいで


先日、中学時代の部活の同級生が東京出張ついでに髪を切りに来てくれた。

自分から同級生に連絡することなんて全くと言っていいほどないような、地元(仙台)を捨てたと揶揄されても言い逃れできない程度に地元への帰属意識が希薄(あるいはコミュ力が薄弱)な僕にとって、美容師をやっているというのは放っておいても同級生が会いに来てくれる(←言い方)という、自分から人里を離れておいてたまに人肌が恋しくなるわがまま赤鬼にこれ以上なく恵まれた環境であると言えるだろう。

東京で美容師をやっていると、なんだかんだと話したことがほとんどなかったような地元の中高の同級生なんかもふらっと髪を切りに来てくれて久々に再会することも少なくなくて、嬉し恥ずかし?、やっぱり嬉しな日々だ。


件の髪を切りに来た同級生タカ(仮)の中学時代の印象は素直で根明で社交的で、みんなから愛されるような太陽みたいな男だった。そしてそれはおそらく今も全く色褪せていない。
当時から内向的で協調性のない僕とは真逆だといえる。シンプルにうらやましい。

そんな彼と懐かしい思い出話に花を咲かせたりなんかしていると、青春の1ページである部活の記憶が蘇ってくる。

「ケイは筋トレよくサボってたよな〜」
そういえばそうだった。小学校1年生から剣道を続けていたので必要な筋肉はある程度稽古で自然に必要な分だけそのままついていると傲岸不遜にも思っていて(若気の至り)、自分に必要なのは精神を寂静の境地に至らせ神経を鋭敏に研ぎ澄ますことだと自負していたので(屁理屈)、筋トレが必要だとは思えず必要ではないことは頑張れなかったからだ(わがまま)。タカはまじめにやってた。ごめん。

逆によく筋トレサボっていてあそこまで戦えたものだ(道場連盟では全国大会に、中総体では東北大会に出場した)。いや、筋トレサボっていたからあの程度だったのか。どちらにせよ後の祭りだ。

今はシェアサロンでフリーランスになって美容師をやっている話になると「組織とか向いてなそうだもんな〜、そういうとこケイらしいよ」と。
ふむ、わかっていらっしゃる。集団行動が苦手で、みんなと一緒がどうしても上手くできないのは中学(13-15才)の同級生から見ても、火を見るよりも明らか、わかるわかる案件だったようだ。

ん?待てよ。

納得してないことは絶対にできないところも、協調性がなくマイペースを崩せないところも、中学生(10代の中頃)から相も変わらずそうだったということか。三つ子の魂百まで、、、。古の知恵とやらは言い得て妙なり。

僕はこれらの"個性"(personality)に合わせた働き方や環境をこれまで選んできた。自己決定権(裁量)がほぼ100%の環境で、フリーランスという自立した働き方を。
そうやって考えてみると僕の人生、ひいては多くの人の人生は『ある程度の方向性を以て、予定調和的なエンドロールに収斂していく』のだろうか。

つまりこれは、与えられた個性(personality)と「自由意志」は相反するもので、両立し得ないのではないか、と問うことにも繋がる。

僕は自由に未来を選ぶことができるのだろうか。僕が選んできた選択肢(未来)は"選ばされてきたものではなかったのか"。


ちゃんと哲学的に表記すると(哲学ギークたちに怒られそうなので)、ここで言いたい「自由意志」は"僕たちがなにものにも縛られずに新しく何かを始める力"という一般的な文脈の意味で使っているので、正確には「意志」というものを指している。哲学的に正しい用法での「自由意志/liberum arbitrium」は『理性の指導や欲求の誘いに基づいて行われる選択』なので、ギリシア語の「選択/prohairesis」に対応している。

なんのこっちゃと言われるかもしれないけれど、はじめから「意志」と言うより「自由意志」と言ってしまった方がなんとなくイメージがつきやすいかも、と思っての話なので、よくわからない方は読み飛ばしてスルーしてもらっても大丈夫です。(哲学界隈だと「意志」と「自由意志」は違うよ、という話)


以上の注釈を前提にすると、なんだか不思議で興味深い結論が導き出される。
それは、アリストテレスを筆頭にするギリシア哲学では「選択」と「意志」は別物だと考えられているということだ。(正確に言うと、ギリシア哲学には「意志」という概念が存在していない)

「選ぶこと」と「意志すること」は定義からして概念そのものが違うらしい。なるほど。

ギリシア哲学での「選択」とは、連綿と続く過去からの不断の選択の連続が形作る現在を意味していて、それとは全く違う概念として「意志」とは過去から切断された絶対的な未来の始まりを意味している。

ここでギリシア哲学が言っていることとは簡単に言ってしまうと、僕たちは「選択」をしてきたし、これからもしていくのであって、そこに自由で何物にも拘束されない自律的な「意志」は存在していない、ということだ。


「選択」と「意志」は違う、、、。

あなたはどう思うだろうか。「あーもう訳わかんない、私は全て自分の"意志"で"選択"してきたんですけど!」なんて思うかもしれない。
でも、少し落ち着いて考えてみてほしい。今までの人生における選択(進学、就職、恋愛、友人関係、転職、昨日の晩ご飯etc.)は全ての選択肢が50:50のイーブンな状態から、完全に全ての選択肢を平等に頭の中を白紙状態(タブララサ)にして自律的に選んできたものだろうか。自信を持って「イエス!」と言える人はもうすでにニーチェの言う『超人』という存在だと言えるだろう。そしたらそれはもう拍手、すごいほんとに。

僕はとてもじゃないけれど全て自分の能動的で自律的な「意志」であったなんて言えそうにもない。僕は今までの人生における重要なそれぞれの選択肢を選んできたが、選ばされたとも言えるし、ある意味選ばれてきたとも言える。それは仕方なく、或いは必然的に、尚且つ偶然的に。

能動的ではあるが、一方で受動性を孕んでいる。そんな感覚の世界観を哲学(や言語学)では『中動態』という。


國分功一郎さん著『中動態の世界 意志と責任の考古学』という本は、僕が2024年上半期、数えてみれば60冊前後の本を読んだ中で最も人生観を、或いは世界観をアップデートしてくれた読書体験となった。

この本では言語学を道標に、かつての言語には存在していた能動態と対立する"能動でも受動でもない"概念「中動態」(受動態はこの中動態の一部と見做される)について、言語学者バンヴェニストや哲学者アレント、スピノザらの哲学に光をあて、現在の言語では抹消された中動態の世界について「意志」「責任」などの倫理学から考察するという構成になっている。

僕はポストモダンの哲学者ジャックデリダについての本を読んでいるときに、たまたまデリダの「差延」という哲学概念が「むしろ中動態的である」という表記を目にして、その注釈に『中動態の世界 意志と責任の考古学』が参照されていて、この本に偶然出会ってとてつもない衝撃を受けた。
なにを隠そう、今まで自分自身が内省してきた人生観、世界観をこの「中動態」という概念が一言で言い表してしまっていたからだった。

生きているし、生かされている。選んできたし、選ばされてきた。これまでも、そしてこれからも。

そんな自分の人生哲学がすでに哲学体系の一部として数百年前から語られていたとは、、、。哲学者ってすげー!哲学ってさいこー!興奮冷めやらぬ読みはじめの頃の僕は毎日この本を持ち歩いては合間で読み進め、仕事帰りはスキップしそうになるのを堪えて(夜の中目黒でスキップはまずい)悠々と帰りつつ、夜が更けるまで中動態の世界に没入した。


この本の面白いところは「中動態」の概念を倫理学の視点から読み解いていることだ。
「意志」がそもそも存在していないのであれば、行為の「責任」を問う場合はどうすればいいのだろう。逆説的に、これは「責任」を問うために「意志」という概念が必要だった(つまり、後付けである)という帰結を導き出す。

僕たちの「選択」が能動でもなく受動でもない「中動」的なものであるとすれば、「責任」は誰に(もしくは何に)あるのだろうか。

生きているし、生かされているのではあれば、その感謝は誰に(もしくは何に)寿げばいいのだろう。これは自分の成功がどこまで"自分のおかげさまなのか"という能力主義/meritocracyの問題を孕んでいる。

統合失調症で自傷をしてしまう女性は「切っているのは自分、だけど切らされてもいる」と語っていたという医学関係の専門書を読んだことがある。この場合、自傷の「責任」はなにに(もしくは誰に)あるのだろうか。

アルコールや薬物依存の方は「意志」が弱いから依存症から抜けられないのか。自己「責任」論を持ち出されて「意志」の弱さを問題にするという、全くクリティカルではないマッチョな主張がいまだに散見される。依存症という脳のメカニズムが科学的に立証されているのにも関わらず、だ。
それが「中動態的」な行為だという認識に乗っ取れば、その解決やケアは個人の問題ではなく社会福祉の領域の問題だと明確にコンセンサスを得られるだろう。体育会系はコートの中でだけにしてくれ。Q.E.D。


なんだか随分、発散的に話して(書いて)しまったけれど、この「中動態」の概念は僕のこれからの人生観において重要なひとつの柱になるような気がしている。

そうやって考えてみれば、人生は『ある程度の方向性を以て、予定調和的なエンドロールに収斂していく』というのは、半分合っていて半分間違っているのかもしれない。

不断の選択の連続という連綿と続く過去からの帰結である現在は「選択」であっても、過去を断絶する純粋な始まりとしての自律的な「意志」ではなかった。
だけど、中動態の世界では「自由」が否定されているわけではない。


僕たちはこのやんごとなき白眉な世界で生きているし、生かされているし、やっぱり生きていく。選んできたし、選ばされてきたし、そうしてやっぱり選んでいくのだ。


中動態のパースペクティブは僕に新しい世界観を見せてくれた。やっぱり哲学っておもしろい。2500年ほどの西洋哲学の歴史は、人間の悩みや感性なんて今も昔もだいたい一緒だよ、なんてことを教えてくれているのかもしれない。

僕の悩みはだいたい哲学者が答えを出してくれている。僕の問いはだいたい哲学者が悩んでいたことだ。

22時54分。たくさんの友人たちを本棚に並べ奉り、その背表紙を肴に、ほとんど氷が溶けたロックのブランデーのグラスをゆっくりとかき混ぜる。
飲んでいるし、飲まれている。この中動態にゆらぐ静かな部屋の中で。

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