謎解き『舞姫』⑥(森鷗外) ――豊太郎が手記を書き残した理由――
4 疑問に対する解答
(1) 豊太郎が手記を書き残した理由
『舞姫』は誰が誰に向けて書いたものでしょうか。
これは明らかで、『舞姫』は森鷗外が一般の人向けに書いたものです。
それでは、小説『舞姫』の設定はどうなっているでしょうか。
それは、太田豊太郎という主人公がドイツでの経験を手記にまとめたという設定になっています。
それでは、豊太郎は誰に向けてその手記を書いたのでしょうか。
一般向けに書いたはずがありません。
まず、普通に考えて、自分の恥部、クズっぷりを大々的に公開することはないでしょう。
ただ、一種の告白録と見れば、それもあり得ます。
しかし、上司批判、相沢批判はどうでしょう。
日本に戻って役人の世界で再起を図ろうとする豊太郎です。
元上司の悪口や恩人相沢への恨みまで赤裸々に書いた告白録を世間に公開するでしょうか。
これはあり得ません。
では、自分に向けて書いたのでしょうか。
豊太郎は、もともと日記を書こうとして購入した冊子に書きつけています。
日記であるなら、その読者は「未来の自分」です。
ただ、『舞姫』は全編、物語のタッチで描かれています。
日記の中で、未来の自分に向けて物語を読み聞かせたのでしょうか。
確かにそういうこともあります。
しかし、豊太郎がそんなことをしたとは思えません。〈注③〉
具体的に見てみましょう。
『舞姫』の中には次のような記述があります。
①此度は途に上りしとき、日記ものせむとて買ひし冊子もまだ白紙のままなるは、独逸にて物学びせし間に、一種のニル-アドミラリイの気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。
②昨日の是は今日の非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せむ。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。
③嗚呼、詳しくここに写さむも要なけれど、余が彼を愛づる心の俄かに強くなりて、遂に離れ難き仲となりしは此の折なりき。
①と②は、誰に問いかけたものでしょうか。
日記だとしたら自問自答になりますが、本人には答えがはっきり分かっていることをわざわざ自問自答するでしょうか。
とすれば、やはり読者に向けて問いかけられたものになります。
読者が予想しそうなことを挙げ、それを敢えて否定することで、自分に対する読者の誤解を予め解いておこうとしています。
また、③は誰に向かって「要なけれど」と弁解しているのでしょうか。
ここも「読者の皆さんには詳しく話す必要がありませんが」と述べているのでしょう。
しかし、先ほど私は、豊太郎の手記の読者は一般の読者ではないと言いました。
では、読者とは誰でしょう。
私は、それは「理念上の他者」だと考えています。〈注④〉
現実の他者ではなく、「自分の行為や思考、決断を正当に評価するであろう観念上の読者」です。
これは決して突飛な発想ではありません。
私たちは物を書く時、どこかにその文章を正当に評価してくれる「理念上の読者」を想定してはいないでしょうか。
何らかの文を他者に読んでもらった時、その他者は必ずしも自分の思いどおりに評価してくれるとは限りません。
時には、徹底的に批判してくることでしょう。
もちろん、相手に理がある場合は自分の考えを修正すればよいわけです。
しかし、批判されても自分の考えが正しいと思う場合もあります。
世間の大多数から批判されても、自分の「正論」を訴え続けることもあります。
それは、私たちがどこかに世間の評価とは異なる、「絶対的な評価軸」があると信じているからではないでしょうか。
豊太郎の場合、自分の手記を発表したところで、世間からクズ呼ばわりされるだけです。
聡明な彼がその事に気づかないはずはありません。
また、日記に書いたところで、何か問題が解決するわけでもありません。
豊太郎は言います。
――嗚呼、いかにしてかこの恨みを銷せむ。
もし外の恨みなりせば、詩に詠じ歌に詠める後は心地すがすがしくもなりなむ。
これのみは余りに深く我が心に彫りつけられたれば、さはあらじと思へど、今宵はあたりに人も無し、房奴の来て電気線の鍵を捩るにはなほ程もあるべければ、いで、その概略を文に綴りてみむ。――
つまり、「この恨みを消すこと」、これが豊太郎の手記の目的です。〈注⑤〉
「この恨み」は、エリスとその子を救い出すことによって、完全ではないにせよ、消えるでしょう。
つまり、豊太郎は「二人を日本に呼び寄せようとした」ということです。
豊太郎は「理念上の読者」に自分のその考えや決意を語り、彼らの支持のもと、「この恨み」を消そうとしました。
世間の読者の共感ではなく、理念上の読者の共感を得ようとしたのです。
鷗外はその手記をフィクションの世界から掬い上げ、現実の世界で小説として発表しました。
〈注③〉日記の中の自己劇化
日記の中で、物語を書くということはあります。
自分を主人公にするという、自己劇化の手法もあることでしょう。
しかし、太田豊太郎の場合は成立しません。
もし豊太郎が自分の日記の中でエリスとの経緯を物語化し、自己を劇的人物として描いたなら、あまりにも不誠実です。
人生を狂わされたエリスとその子を題材に自己を劇的に描くなど、許されていいはずがありません。
私の見るに、豊太郎はその判断や行動が結果として正しかったかどうかはともかく、少なくとも倫理的であろうとした人物です。
その彼が、日記の中であったとしても、エリスを題材に自己劇化を図るとは思えません。
〈注④〉「理念上の他者」
思想家小浜逸郎さんの著作に学んだ考え方です。
ただかなり以前に読んだ本の中にあったものなので、私の考えは小浜さんの考えとは細かい点で異なるかもしれません。
〈注⑤〉「嗚呼、いかにしてかこの恨みを銷せむ」の解釈
「いかにしてか」は疑問や反語、詠嘆の意味で使われます。
私はこの言葉に、「何とかしてこの恨みを消したい(何とかしてエリスを救いたい)」という願望を読み取りました。
これは決して誤った解釈ではありません。
「いかにしてか」を願望に使った事例はあります。
例えば、樋口一葉の随筆『すゞろごと』の冒頭は、「ほとゝぎすの声まだしらねば、いかにしてか聞かばやと恋しがるに…」で始まります。
これは、「ほととぎすの声をまだ聴いていないので、何とかして聞きたいと恋しく思っている」という意味です。
現代語でも似た例はいくらでもあります。
例えば、「どうしたらいいのだろう」と言ったとき、単なる疑問を表す場合もありますが、「ああ、どうしたらいいのだろう」と言った場合は詠嘆になります。
さらに、「ああ、どうしたらいいのだろう。もうどうしようもなくなってしまった」という場合は、反語です。
そして、それらの表現の背後には「どうしたらいいのか知りたい」という願望があります。
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