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謎解き『舞姫』⑪(森鷗外)――舞姫論争における鷗外の忍月批判――
6 舞姫論争における鷗外の忍月批判
豊太郎の「エリスとその子を日本に呼び寄せる」という決意は、作品の中に全く書かれていません。
しかし私は、豊太郎は手記の中でその決意の痕跡をとどめたと考え、その根拠を四点挙げました。
もう一点、舞姫論争における鷗外の発言の中にも、ほんのわずかではありますが、その根拠を求めたいと思います。
彼は石橋忍月との「舞姫論争」の中で、次のように言います。
――太田生は真の愛を知らず。然れども猶真に愛すべき人に逢はむ日には真に之を愛すべき人物なり。足下らは能く太田生に慙づる所なきか。――
鷗外の言、「太田豊太郎は真の愛を知らない。」
なるほど、そうかもしれません。
豊太郎がエリスと結ばれたのは、免官と母の死という二重の苦しみを受けていた時のことです。
彼は「恍惚の間」に、こと「ここに及び」ました。
豊太郎に同情すべき点はありますが、確かに愛の気持ちからエリスと結ばれたとは言い難いところがあります。
続けて鷗外は言います、「しかしなお彼は、もしも真に愛するにふさわしい人に出会った日には、真にその人を愛するに違いない人物である」と。
この「真に愛するにふさわしい人」とは誰のことでしょうか。〈注⑥〉
それはエリス以外に考えられません。
豊太郎は、手記を書いた後、自分が真に愛すべき人エリスと会う、と鷗外は言っているのです。
豊太郎が愛する人エリスと会う場所は、日本以外には考えられません。
そうしてこそ豊太郎も、父としての責任と夫としての愛を成就する人物になるのです。
エリス以外の女性に会ったところで、豊太郎が「真にその人を愛するに違いない人物」になるはずがありません。
作者森鷗外は、太田豊太郎をしてエリスとその子を日本に呼ばしめようとしました。
作者について少しでもお詳しい方は、もうお気づきでしょう。
森鷗外のドイツ留学の帰国後に、エリーゼという女性が彼の後を追うようにして来日しています。
そのエリーゼは森家の人々に迫られ、無理やり帰国させられたようです。
鷗外とエリーゼとの間にどのような関係や約束があったのかよくわかりませんが、おそらく鷗外との結婚を前提とした来日であったのでしょう。
鷗外の愛は人々の妨げにより実現しませんでした。
鷗外は死の直前、留学時代のドイツ人女性の写真や手紙を焼却させたということです。
鷗外は愛する人と日本で結ばれるという願いを、豊太郎によって成就させたのでしょう。〈注⑦〉
〈注⑥〉「真に愛すべき人」の解釈
本文は、封建時代の色事しか知らない(つまり、近代的恋愛を知らない)石橋忍月への批判であり、エリスについて述べた部分ではなく、「太田は“本当の愛=近代的な愛”を知らない。しかし、この後、真に愛することのできる人に出会った日には、太田は真にその人を愛するに違いない人物である」と解釈すべきだという考え方があります。
しかしながら私は、「豊太郎はそれまでは真の愛を知らなかったが、エリスと再会することで真の愛に気づく人間になるだろう」という解釈も可能ですし、そのような含意もあっただろう(真意はそちらにあるだろう)と考えています。
この「真に愛すべき人」を「未知の女性」と捉えた場合、本文に続く「足下等は能く太田生に慙づる所なきか」という詰問は有効なものになるでしょうか。
「真の愛を知らない忍月よ、すでに真の愛を知った豊太郎に恥ずかしくないのか」と言うのならともかく、「今は真の愛を知らない豊太郎だが、将来彼は真の愛を知るはずだ、その豊太郎に恥ずかしくないのか」というのは的外れです。
「現在はまだ未熟な豊太郎に頭を下げよ」と忍月に迫ることはできません。
しかし、「真に愛すべき人」をエリスだととらえれば、鷗外の批判は成立します。
なぜなら、豊太郎はこの後、エリスを日本に迎え、彼が真の愛を知る人間になることは間違いないからです。
鷗外の詰問は、豊太郎がエリスを捨てていないからこそ成立します。
〈注⑦〉エリスは森鷗外の恋人エリーゼの投影である
鷗外は『舞姫』の中で豊太郎をしてエリスを捨てしめたと考えるより、『舞姫』の中で太田豊太郎をしてエリス(エリーゼ)を捨てしめなかった考える方が自然です。
鷗外は作品を発表する前に、『舞姫』を家族に読み聞かせたといいます。
なぜでしょうか。
それは自分の本心を豊太郎に託し、家族に伝えようとしたからでしょう。
『舞姫』が結局エリスを捨ててしまう話であるなら、家族に一番に聞かせる理由もありません。
「豊太郎のように、自分もすべてを捨ててエリーゼを迎えたかった」と言いたかったのだと思います。