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謎解き『舞姫』⑤(森鷗外)――「一抹の雲」の意味するものは何か――
(4) 「一抹の雲」の意味するものは何か
帰国する船の中での豊太郎の心情には変化があります。
――「此の恨は初め一抹の雲の如く我が心を掠めて、瑞西の山色をも見せず、伊太利の古蹟にも心を留めさせず、中頃は世を厭ひ、身をはかなみて、腸日ごとに九廻すともいふべき惨痛をわれに負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の翳とのみなりたれど、文読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響きの如く、限なき懐旧の情を喚び起して、幾度となく我が心を苦しむ。――
この部分で従来から問題視されていることは、出港直後は豊太郎の恨みも「一抹の雲」程度のものでしかなかったのか、ということです。
エリスを捨てたのであるなら、この心理の変化を説明することは困難です。
むしろ、そこには豊太郎の人格に対する根本的懐疑を抱かしむるものがあります。
一説に、船の中で相沢からエリスが狂った時の様子を詳しく聞いたからだといいます。
なるほど、あり得ることです。
作品の結末部にも「後に聞けば…」とありますが、その時の様子は後で相沢から聞いたのでしょう。
エリス一家への補償や帰国に向けてのさまざまな手続きを終え、豊太郎も精神的に落ち着いたと思われる帰国の船の中で、相沢がその詳細を語って聞かせたとしても不思議ではありません。
だから初めは軽度であった豊太郎の苦悩が、その後七転八倒の苦しみになったというわけです。
ただそうであったとしても、私にはやはり「一抹の雲」というのは、あまりに軽い表現だと感じます。
それに、もしこの説の通りであるのなら、豊太郎は手記にそのように書くのではありませんか。
さて、豊太郎はエリスを捨てたという定番の解釈は、以上(1)~(4)の疑問にうまく答えられません。
ところが、豊太郎はエリスを捨てていなかったと解釈すると、それらの疑問はみごとに氷解するのです。
疑問が消えるだけでなく、『舞姫』という作品の価値も輝きはじめます。
次回から、そのことについてお話しします。