謎解き『杜子春』(4) 大人のための芥川『杜子春』と李復言『杜子春伝』
今回は、なぜ鉄冠子は杜子春に矛盾したことを言ったのか、その謎を解き明かしたいと思います。
8 鉄冠子の謎とその解明(その2)
3度目の黄金の提供を拒否した杜子春は、鉄冠子に「あなたの弟子になって、仙術の修行をしたい」と言いました。
これは鉄冠子の意表を突いたと思われます。
彼は「眉をひそめたまま、暫くは黙って」しまいました。
鉄冠子は、李復言の道士と異なり、杜子春を使役したいとは思っていません。
「眉をひそめた」わけですから、杜子春が「仙術の修行をしたい」と言ったことを、よいことだとは考えていなかったでしょう。
しかし、「何事かを考え」ましたが、「やがてまたにっこり笑いながら」杜子春の申し出を許可しました。
私には、鉄冠子がこの一瞬ですべてを計画し、その結果まで見通したのではないかと思われます。
杜子春の願いをひとまず聞き入れて、仙人になる修行をさせてやること。
修行の中で地獄に落ち、杜子春はそこで馬になった父母と出会うこと。
その時に杜子春が約束を破って、声をあげること。
そして最後に泰山の麓にある家や畑を与えること。
要するに、鉄冠子は杜子春の「道心」を利用したのです。
こう考えれば、鉄冠子が最初に「決して声を出すな」と命じながら、最後に厳かな顔になって「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」と言った理由も理解できます。
鉄冠子はもともと、杜子春が一人前の大人として、ちゃんと暮らしていけるようになることに願って彼に近づいたのです。
鉄冠子の言葉は、すべてその目的のために発せられています。
発言の整合性をとることが目的ではありません。
杜子春はもともとひ弱な若者でした。
金がなければすぐ死のうと考え、金があってもその金を有効に使うことを学びませんでした。
目の前の困難を打開して生きていこうという力がまるでありません。
鉄冠子はその彼を教育し更生させようとしました。
なんと聡明で心優しい仙人ではありませんか。
杜子春は初め、「人間はみな薄情だ」と言いました。
しかし、母の優しい言葉を聞いても黙っている自分を見て、世間の人より薄情なのは自分だと気づいたことでしょう。
地獄で鞭打たれても「お前さえよければ…」という母の言葉を聞き、杜子春も初めて他人の気持ちを理解できるようになったのでしょう。
そうでなければ、最後に彼の口から「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」という言葉が出てくるはずがありません。
原作の道士は、杜子春に試練を与える前、「決して口を利くな。これから経験する様々な苦難はみな真実ではない。安心せよ」と告げました。
道士は杜子春の試練が幻影でしかないことを初めから暴露しています。
原作の杜子春は、喩えて言うなら、ホラー映画を見ただけです。
鉄冠子は杜子春に、「いろいろな魔物に襲われるだろうが、天地が裂けても、黙っていよ。声をあげたら仙人にはなれないぞ」と厳命しています。
試練は真実の体験であり、命懸けで取り組めと釘を刺しています。
鉄冠子は杜子春に覚悟を決めさせました。
本気で取り組んだからこそ、杜子春も更生できたのです。
杜子春の意志とは異なり、鉄冠子には最初から杜子春を仙人にするつもりはなかったでしょう。
芥川『杜子春』最大の疑問であり、矛盾でもあったこの問題は、このように考えることによってのみ解決します。
鉄冠子の杜子春を救いたいと思う強い気持ちが、「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」という言葉に繋がったのであり、ほんとうに杜子春を殺そうと思っていたわけではありません。
続けて鉄冠子は言います。
「お前はもう仙人になりたいという望みも持っていまい。
大金持ちになることは、元より愛想が尽きたはずだ。
ではお前はこれから後、何になったらいいと思うな」と。
杜子春が仙人になることも、大金持ちになることも鉄冠子の願いではなかったことが、この言葉にも表れています。
「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」
杜子春の答えを聞いて、鉄冠子は「その言葉を忘れるなよ」と念を押しました。
別れ際に鉄冠子は「二度とお前には会わないから」と言いいます。
何気ない言葉ですが、「これからはもうお前に会う意志はない」という意味です。
裏を返せば、「今までは意図的に杜子春に近づいた」という意味にも聞こえます。
鉄冠子は「初めお前の顔を見た時、どこか物わかりがよさそうだったから、二度まで大金持ちにしてやった」と言いました。
つまり、気まぐれで声を掛けたということです。
それなら、これからも気まぐれに声をかけてもいいはずです。
ところが、わざわざ「二度と会わない」と言ったのは、鉄冠子がもう目的を果たしたからです。
続けて鉄冠子は、思い出したかのように「泰山の南の麓の家と畑をやる」と言います。
おそらくこれも演技でしょう。
最初からそのつもりであったことを隠しているだけです。
知っているのに知らないふりをすることなど、いくらでもあります。
末尾の一文「さも愉快そうにつけ加え」た所に、鉄冠子の満足な気持ちが表れています。
すべては鉄冠子の思惑通りになったのです。
9 大人のための小説『杜子春』
芥川の『杜子春』の結末については、さまざまな批判があります。
一つは、芥川は結局「人間らしさ」や「愛」などという通俗的な道徳を伝えたに過ぎないという批判です。
しかし、子供ならともかく、大人が読むべきポイントがそんなところにあるものでしょうか?
そもそも、杜子春の言う「人間らしい、正直な暮らし」とは、どんな暮らしのことでしょうか。
彼の経験から言えば、「金のために嘘を言ったり人を騙したりするのではなく、他人への愛や思いやりを忘れずに生きる」ぐらいの意味でしかないでしょう。
これを子供に聞かせるのはいいことです。
しかし、大人がわざわざ教えてもらうほどのことではありません。
まあ、大人の中にはペテン師や金亡者もいますから、彼らには聞かせたいと思いますが。
ただ、そんな説教を聞かせたくて、芥川がこの緻密に計算された小説を書いたとは、私には思えません。
もう一つの批判は、次のようなものです。
「桃源郷に暮らしても、それは一種の隠遁生活であり、人間社会に復帰できたとは言えない。杜子春は自分が『愛想が尽きた』という洛陽のような町に戻ってこそ、本当の解決だと言えるのではないか」というものです。
「要するに、杜子春は逃避しただけだ。洛陽に戻って戦いながら生きよ!」、ということでしょうか。
よく似た批判に、「俗世間を否定しながら、杜子春は結局『凡人』として生きようとしているだけだ」というものもあります。
どうしても他人の生き方にまで口を挟みたいようですね。
私は、杜子春が泰山の麓に行こうが、洛陽に戻ろうが自分の好きにしたらいいと思います。
逃避すべき時は逃避したらいいし、凡人だからといって否定すべきものでもないでしょう。
ただ、もし杜子春が洛陽のような町に戻ったなら、また金や欲望、裏切りの渦巻く世界に巻き込まれることになるのではないでしょうか。
生きる力が必要だからといって、何もわざわざ(杜子春にとって)嫌な世界に飛び込む必要はないような気がします。
杜子春はこの後、泰山の麓に向かったのでしょうが、それが自分にとって幸せだと思っただけでしょう。
彼は俗世間を否定したのではなく、都会を選ばなかっただけです。
芥川はもともと童話として『杜子春』を書きました。
子供向けには、「人間らしさ」や「愛」の大切さを教訓として語ったのでしょう。
ただ、この『杜子春』は、大人が読むに堪える内容も兼ね備えています。
例えば、欲望に対する人間のもろさや醜さと、欲望を乗り越えた人間の強さや清々しさを描いた作品だと言えます。
しかし、『杜子春』の本当の面白さは、そのようなところにはありません。
小説『杜子春』の魅力は、読者に人間に対する見方の変更を迫っているところにあります。
思い返してみましょう、杜子春や老人はどんな人間でしたか。
杜子春は大金を浪費するだけの無能者、人に裏切られるとすぐに現実社会に絶望し、仙人という空想世界に飛びつく軽薄な若者でした。
また、老人は鉄冠子という名の優れた仙人でありながら、気まぐれで見知らぬ若者に黄金を与える意味不明な爺さん、しかも人を見る目もないような迂闊な仙人でした。
ぼんやり読み進めると、杜子春も鉄冠子もそのように見えます。
しかし、芥川が随所にちりばめた伏線や表現のディテールに目をやれば、彼らの人間像は一変するはずです。
そのように人を見抜く力は、現実の社会や生活において必要かつ重要な能力でしょう。
目に見えた現象や実際に発せられた言葉だけから判断すれば、私たちは往々にして間違えます。
または、騙されます。
邪推するとか忖度するとか、そういう意味ではありません。
人に騙されないためというより、人を思いやるために人を見抜かねばならないのです。
目に見えない背景や、発せられた言葉の真の意味を知ること。
それが芥川の小説『杜子春』の面白さではないでしょうか。
最後に、芥川『杜子春』への疑問⑤~⑦について、まとめて答えておきましょう。
疑問⑤ 鉄冠子は杜子春に初め「声を出すな」と命じておきながら、最後の場面でなぜ「声を出さなかったら殺すつもりだった」と言ったのか。
疑問⑥ 鉄冠子には、杜子春を仙人にするつもりがあったのか。
⑤・⑥の答え 鉄冠子は杜子春が一人前の大人となって、人間社会で生き抜くことができるように彼を導いたのである。
彼の言葉はすべてそのために発せられている。
わかりやすく言えば、「決して声を出すな」も「声を出さなかったら殺すつもりだった」も杜子春への激励であり、その意味において矛盾はない。
鉄冠子には初めから杜子春を仙人にするつもりはなかったのである。
疑問⑦ 杜子春は今後、泰山の麓で生きることになるが、問題はそれで解決したのか。
答え 『杜子春』は、生活の基盤を失っただけでなく、生きる意欲や人間への信頼を失ったような若者の挫折と再生の物語である。
社会の矛盾や人間性の悪とどう戦うか、というような問題をテーマにした作品ではない。
仮にテーマを一言でまとめるとするなら、「欲望や感情を巡る人間の弱さと強さ」、さらに言えば「人を知ることの難しさと面白さ」ということになるだろう。
いかがでしょうか。
芥川の『杜子春』は、大人が読んで面白い小説だと言えるのではないでしょうか。
さて、次回は李復言の物語に焦点を当て、「現代人のための小説『杜子春伝』」をお話しします。