謎解き『舞姫』④(森鷗外) ――なぜわずかな手切れ金だけでエリスの母は納得したのか――
(3) なぜわずかな手切れ金だけでエリスの母は納得したのか
これは従来、あまり顧みられなかった観点ではないでしょうか。
豊太郎が欧州を離れる際の様子は、次のように描かれています。
――大臣に随ひて帰東の途に上ぼりしときは、相沢と議りてエリスが母に微かなる生計を営むに足るほどの資本を与へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。――
豊太郎は、「エリスの母に貧しい生活を続けるための資金を与え、気の毒なエリスが胎内に残した子が生まれる時のことをエリスの母に依頼した」と言いますが、この程度の対応でいいのでしょうか。
エリスの母の身になって考えてみてください。
大事な一人娘を孕まされただけでなく、狂女にもさせられたのです。
わずかな生活費をもらっただけで、「狂った娘とその娘から生まれる子のことは宜しく」と言われたら、納得できるはずがありません。
豊太郎が日本に帰ったら栄達するであろうことぐらい、エリスの母にもわかります。
また、このままでは自分たちに悲惨な未来しかないことも、身に沁みてわかっています。
僅かな手切れ金でエリスが捨てられたなら、母が黙っているはずがないでしょう。
しかし、手記の中では、エリスの母は豊太郎の依頼に納得し、特に騒ぐこともなく彼を帰国させたように見えます。
それはなぜでしょうか。
「エリスが母に…」の部分を、私は「エリスの母に“しばらくの間”エリス一家がささやかな生活を営むに足りるほどの資金を渡し、それとは別に、気の毒な狂女の胎内に残した子が生まれる時のことも頼んでおいた」と解釈しました。
豊太郎は短期的な生活費を渡し、エリスの母に「子どもが生まれた時のこと」を特に頼んだということです。
そうではなく、「エリスの母に“今後ずっと”エリス一家がささやかな生活を営むに足りるほどの資金を渡し…」とする解釈もあります。
この場合、豊太郎はエリスとその子、及びその母が今後の長い人生の生計を維持し続けるだけの資金を与えたことになり、別に出産のことだけを特に依頼したわけではないということになります。
しかし、この解釈には無理があります。
一つは、「微かなる生計を営むに足るほどの資本」といっても、今後の三人の生活の保障をするのですから、かなりの大金になるはずです。
こういう場合、普通は定期的に送金するでしょうし、明治時代にそのような事例もあるようです。
いったい、豊太郎はエリスがいくつまで生存すると考えて、資金を渡したのでしょうか。
仮に50歳だとしても、まだ30年以上あります。
子供の養育費、教育費だって馬鹿になりません。
エリスの医療費も必要でしょう。
貨幣価値だって変化します。
貧しい生活で我慢してもらうにしても、今後何十年にわたる資金を一括で払ったわけがないでしょう。
それに、生活費と出産の世話のことだけを依頼すればそれでいいというものではありません。
狂ったエリスの世話も母に依頼せねばならないのではありませんか?
エリスを捨てるのであるなら、一時的に終わるエリスの出産のことよりも、今後20~30年に及ぶ狂ったエリスの世話のことをより懇ろに母に依頼するのが当然でしょう。
それでも、母が生きているうちはまだいい。
母が亡くなったら、誰が狂ったエリスとその子の世話をするのでしょう。
その時も、ささやかな生活資金さえエリスに与えておけばそれでいいというでしょうか。
そもそも、エリスの母はそれほど信頼に足る人ではありません。
エリスの父の死後、エリスに売春させようとしていたかもしれない母です。
もちろん貧困ゆえの選択ではありますが、場合によっては今後、狂ったエリスに同じことを求めかねない人だと私は思います。
エリスが豊太郎を連れて自宅に帰った時の、エリスと母のありさまを思い出してください。
扉を激しく開閉するような、振る舞いの乱暴な女性です。
エリスと激しく口論するような、性格のきつい老婆です。
豊太郎がエリスを捨てたとしたら、彼が帰国する際、どんな対応をしたか容易に想像できるでしょう。
それが『舞姫』には書かれていません。