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古典擅釈(5) 人を見抜く目『井蛙抄』②

 西行に後れること二十年、同じく平安末期に活躍した傑僧に文覚という男がいました。
 俗名を遠藤盛遠と言い、鳥羽天皇の皇女に仕えていましたが、十九歳の折、道心をおこし出家しました。
 『平家物語』によると、修行と称し、真夏の山の薮の中に七日間仰向けに寝て、蚊や蜂など毒虫が体を食うにまかせたり、真冬の那智の滝で雪が積もり氷が張る中、二十一日間滝に打たれたりしたとのことです。
 生涯に三度流罪となった荒法師ですが、伊豆に流されたとき、同地に監禁されていた頼朝に接近し、謀反を勧めたといいます。
 その際、平治の乱で平清盛に敗れた源義朝(頼朝の父)の髑髏を懐より取り出し、頼朝に決断を迫ったとされていますが、真偽はともかく、文覚らしい話ではあります。
 型破りな逸話の多い文覚ですが、同時代の慈円は『愚管抄』の中で、「文覚は行はあるが、学のない上人である。あきれるほどひどく人を罵る悪口の者だとか、天狗を祭っているとか世間で噂されている。しかし、心が誠実なためか、播磨国を七年間知行し、あのように興隆したのであろう。」と評していますから、逸話の内のどれだけかは真実を穿っているのでしょう。

 この文覚と西行との出会いが心源上人の話として、南北朝時代の歌論書『井蛙抄』に載せられています。
 強烈な個性と個性のぶつかりあいをみごとに描いた名場面です。

 

――文覚上人は西行を憎んでおられた。
 その訳は……。
 俗世を捨てた身となったなら、一筋に仏道修行に打ち込むべきで、それ以外のことをなすべきではない。
 にもかかわらず、西行は和歌という風雅の道に耽って、あちらこちらで歌を吟詠してまわり、憎らしい法師である。
 どこであれ見かけたならば、西行の頭を打ち割ってやる……。
 これが上人のふだんの心づもりであった。
 弟子たちは、「西行は天下に名の知れ渡った人物だ。もしそんなことでもあったなら、一大事だ」と気を揉んでいた。
 ある時、高雄の神護寺の法華八講会にとうとう西行が現れて、桜の花陰で歌など詠み歩くことがあった。
 弟子たちは「このことを決して上人に伝えてはなるまいぞ」と言い合わせていたが、法華八講会も終わり宿坊へ帰ってくると、庭で「ごめんください」と案内を請う者がいる。
 上人が「どなたか」と聞かれると、その人は「西行と申す者でございます。法華八講会で仏縁を結びたく、参拝致しました。今はもう日も暮れました。今夜、こちらのご庵室に泊めていただきたいと思って参上したのでございます」と答えた。
 上人は部屋の中で手ぐすねを引いて、願っていたことが叶ったという顔をして、障子を開け、西行を待ち受けた。
 ところが、上人はしばらく西行の顔を見つめると、「こちらにお入りなされ」と招じ入れ、「長年ご尊名は承っており、拝顔の栄に浴したいと存じておりましたところ、今回、図らずもご来臨を賜り、恐悦至極に存じます」などと丁寧に話をして、非時(夕食)などもてなし、翌朝には齋(朝食)まで勧めてお帰しになったのだった。
 弟子たちは手に汗握ってなりゆきを見守っていたが、西行が無事に帰ったことを喜んだ。
 そうして、次のように言った。
 「お師匠様は、西行に出会ったならば頭を打ち割ってやろうとあれほど言っておられました。
 しかし、この度、特に心静かにお話しなさいましたことは、日ごろの仰せに背いております」
 すると、上人はこう申された。

 あらいふかひなの法師どもや。あれは文覚にうたれんずる者のつらやうか。文覚をこそうたんずる者なれ。

 ああ、つまらぬ坊主どもだ。あの西行はこの文覚に殴られるような顔付きの男か。この文覚をこそぶちのめす者であるわい。  

 

 文覚は、和歌に淫する文弱の徒に目にものを見せてくれようと思っていましたが、実際に出会ってみると、西行は頑強で隙のない男であったのでしょう。
 文覚が仏道修行に打ち込んだように、西行も和歌の道に打ち込んでいたのです。
                             〈続く〉

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