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コーチングセッションを受けて気づいた事

どうもkdyです。

今回は筆(指)の赴くままに書いているので非常に読みにくい思います。


現在コーチングの勉強をしながらコーチングセッションを受けています。

世の中自己啓発、色々な流派や手法がありますが、自分は、不安や生きずらさを引き寄せる根本原因である心の穴を埋めていく「Hole理論コーチング」を学んでおります。

そのセッションの中で出た自分にとってのキーワードが「感情の共有」でした。

いつの頃か、人と会話している時、それは親しい中の人でも漠然とした不安に襲われる事がありました。

また、場や人、シチュエーションに合わせてしまい自分の本音や意見が出せなかったり、主体となって参加しているつもりなのに、どこか自分が傍観者としてその場にいるような気持ちになったり、人と関わっていく事に疲れてしまう自分を感じていました。

そのくせその場が盛り上がっている風景をみたり、傍観者の形で人と関わる事は抵抗感がなく、グループでの呑み会なんかでは自分が話すよりは場を回す事、自分を抜きにした場の流れを生み出す事に徹して、その話を聞きながら酒を楽しむという、おおよそ人には理解されないような楽しみ方をしていました。

「こいつ人と接するのが苦手って言ってるけど本当か?」と周りに言われたり思われたりする事もありました。自分でも何でなんだろうと思っていましたが、そういう性格なのかな程度にしか感じず重要視していませんでした。


そんな中で、先に書いたセッション中に、

「kdyさんって家族と感情を共有した事はありますか?」
(実際言われた言葉とは違いますがニュアンスとしてはこんな感じです)

と聞かれ、最初は?マークが頭に浮かびましたが、思い返していく中で、

「ああ、確かに自分は感情を共有した事がない」とはっきり自覚出来ました。

だから人と話す事=感情の共有であるから自分の思っている事や意見を言う事が出来ない、そして自分がそれに対しての憧れを持っているから、そういった場に居る事や流れを作って遠巻きに見ているのが好きだったんだと腑に落ちました。

面白い事に、その事を自覚出来てから、新しい職場の中でも過度な緊張が減ってきたり、新しい挑戦のための一歩踏み出す事も、以前よりほんの少しですが抵抗感が減りました。自分の中に安心感が少しずつ生まれてきているのかなと感じられるようになってきたのかなと思っています。

その時、自分が目指すコーチの形は、漠然な物言いですが「伴走者」なのかなと感じました。自分の深い部分と向き合う事は本当に辛いですし、自分であるが故に底も先の風景も見えない中進まなきゃいけないです。また自分と向き合うが故に自分だけでは見えない部分が多くあり、その見えていない部分に自分の求めているものがあるように感じました。

答えや気づきは自分(クライアント)が探し、得なければいけない、だからこそ共に真っ暗闇の泥沼の中を伴奏出来るような存在(コーチ)に少しでも近づきたいと思いました。

そのために泥沼の中で引き続き自分と向き合います。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

kdy(最近「沼」という表現がマイブームです)


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