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【読書メモ】個別最適な学びと協働的な学び

こういう学びの場を展開したいと思いました。

本書の中で、論考の柱になっているのは、次の二つの子ども観です。

すべての子どもは、適切な環境と出合いさえすれば、自ら進んで環境に関わり、その相互作用の中で自ら学びを進め、深めていく存在なのです。

『個別最適な学びと協働的な学び』奈須正裕

子どもは一人ひとり違っているし、違っていていいというものです。

『個別最適な学びと協働的な学び』奈須正裕

深く共感する考えです。
こうした考えに出会うたびに想起するのは「身体性」です。私たちには、身体があります。ゆえに生まれ落ちた瞬間から自分の内と外という概念を構成しつづけることになります。「環境との相互作用」は私たちにとって根源的なものです。私たちは、学ぶことを宿命づけられた存在だといっても良いかもしれません。

そして、その「身体」は、一人ひとり異なります。全く同じということはあり得ません。また、出会う環境や出会い方も一人ひとり異なります。子どもに限らず、私たちは一人ひとり違うのです。

にもかかわらず、『違って「いい」』とわざわざ言わないとならないところに、リサーチクエスチョンがあるのだと思います。社会の進歩の裏返しとして、知らぬうちに失われてしまっていることがあるのです。

本書で語られているのは、一斉授業の限界です。効率的に一定の学力を高めるのには良い仕組みです。また、一斉といっても多くの先生たちの努力によって一人ひとりの学びや個性を深める工夫をしてきています。それを否定するものではありません。

ただ、一歩間違うと落とし穴にはまってしまうし、一人ひとり違っていいというやり方を貫くのには覚悟がいるのです。

本書にはいくつもの事例が出てきます。少し長いですが、そのまま引用します。

やはり、一年生の算数科の授業でのことです。先生が黒板に問題を書きます。「おりがみが12まいありました。9まいつかいました。のこりはなんまいでしょう」
 子どもたちは静かに問題を写しています。教卓の真ん前に座っている一人を除いては。
 その一人はというと、それまで心ここにあらずという感じだったのですが、黒板に「おりがみ」という文字が書かれた途端に目の色が変わりました。数秒間、世界が止まったかと思うほど黒板を懸命に凝視し、続いて机の中をごそごそやっていたかと思うと、なんと折り紙を取り出したのです。
 板書を終えた先生が振り返るやいなや、その子は待ってましたとばかりに机から身を乗り出し、満面の笑顔で「先生! 折り紙」と、精一杯伸ばした右手で折り紙を差し出します。
 胸元に折り紙を突きつけられた先生は一瞬たじろぎこそしましたが、すぐに毅然とした態度で静かにこう言い放ちました。
「今は何をする時間ですか」
 そして、再び世界が止まったかと思うほどにポカンとしたままのその子の伸ばした右手から折り紙を受け取り、こう続けたのです。
「これは今、関係ありませんね。先生が預かっておきます」
 その手から唯一の学びのよりどころを失ったその子が、再び黒板の問題との間に何らの関係も見いだせないまま四五分を無為に過ごしたのは、言うまでもありません。

『個別最適な学びと協働的な学び』奈須正裕

いかがでしょうか。この場面だけを切り取るとこの教師の態度には問題があると思うでしょう。しかし、一方で教師は授業をマネジメントしていく責任もあります。ある種の規律をもって学んでいくことの大切さも示していかなくてはなりません。放っておいたら、授業として到達したいところへ行かないかもしれません。ただでさえ、時間は限られているというのに。

私は、教員ではありませんが、この教師の代わりに言い訳をしたくなります。「もちろん、理想は一人ひとりです。でも、私たちには時間がないんです。現実にも対処しなくてはなりません」

しかし、同時にそれでは教師の役割を果たしていないことになります。自分の存在意義に葛藤するだろうと思います。

子どもは学ぼうとしています。必ずしも教師が期待したり思い描いているような姿や筋道ではないかもしれませんが、教師が提示した教材や内容との間に何とか自分なりの関わりの角度を見いだし、対象に迫る筋道を見つけようと懸命にがんばっているのです。教師には、今その子はどんな角度なり筋道で対象に迫ろうとしているのか、丁寧に見取り、ほかでもないその角度なり筋道から見た場合に必要となる支援を構想し、実施することが望まれます。

『個別最適な学びと協働的な学び』奈須正裕

見失ってしまうのは、子どもの、その子一人ひとりの視点に立つということです。考えてみれば、これほど難しいことはありません。なぜなら、他でもない私たちが「身体」を持っているからです。だから、想像力と覚悟が求められるのだと思います。

では、どうしたら良いのでしょうか。ここで持つべき考えは、教師も環境との相互作用の中で学ぶ存在であり、一人ひとり違っていいということではないかと思います。

その際、教師はいわゆる「四一人目の追究者」として、子どもたちとともにどこまでも学びを深めていこうとする存在であることが肝要です。たとえ小学校低学年の学習内容であっても、考え深めるほどにわからなくなっていくことは、よくあることでしょう。そして、それでいいのです。なぜなら、学ぶとは本来、わかっていると思い込んでいたことが、一段深い水準においてわからなくなることだからです。大切なのは問いが深まることであり、さらにその深まった問いと正対することです。わからなくなることは、学びにおいてよい兆候であり、それを回避することは学びを遠ざけることでしかありません。すると、事例のように、このような学び本来のあり方を教師が身をもって教室で体現することこそが、子どもたちをよい学び手へと育て上げていく上で最善の教材ということになります。

『個別最適な学びと協働的な学び』奈須正裕

「四一人目の追究者」として関わることで、自らも学び、同時に子どもたちの学びを深める環境の一つであろうとすることが求められるのです。

私たちが良かれと思っていることの中には、相手の文脈を無視した押し付けになっている行為が存在しているのではないかと思います。それは社員の教育において、思い当たる事はかなりあるように思います。また、お客様との間でも相手の視点に立った行動ができていないのではないかと思います。

本書が教えてくれる事は、教育の問題だけではありません。広く社会の役に立とうとするときに相手の視点に立つための想像力や覚悟を持つ探究者であるべきだということのように思います。

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