いつか読むために
【我が家の本棚より】
文章作法に関する本を見つけると、つい買いたくなる。
取り敢えず買っておけば安心する。
いつか読むために。
読んで文章の達人になる!
昔から心意気だけはあったようだ。
それなのに、何が書いてあったのか、さっぱり記憶にない。
すべて読み終えたのかも怪しい。
文章の達人への道のりは遠い。
谷崎潤一郎の『文章読本』を改めて読んでみた。
40年以上前に買ったものだ。
1934年に刊行された本だから、今の時代にそぐわない古くささや、偏見や差別的な内容もあることは否めないが、日本人として美しい日本語を操る心構えのようなものを再認識することができた。
「文章の上達法」から一部引用してみると、
まず、この部分にホッとさせられる。
筆者によると、日本語はそもそも明確な文法などなくて、テニヲハなど使い分けの規則はあるものの、主語が省かれたり、時制も曖昧だったり。
だからそこまで文法に囚われなくてもいいという。
ならば、名文とはいかなるものなのか。
長く記憶に留まるような深い印象 を与えるもの
何度も繰り返して読めば読むほど滋味の出るもの
そんな名文を物するためには感覚を研くことが必要。
感覚を研くためには、
出来るだけ多くのものを、繰り返し読むこと
実際に作ってみること
インプットとアウトプットを繰り返すことによって感覚が鋭敏になるということだ。
当たり前といえば当たり前。
こうしたら名文が書けるという奥義は存在しないようだ。
そもそもAが名文だといっても、Bにとっては悪文ということもあり得るわけで。
名文の定義を自分なりに考えてみると、くだくだしくなく、少し物足りないぐらい余韻を残す、美しい調べのような文章、とでも言おうか。
筆者は、文章表現は勿論のこと、ルビの振り方、送り仮名など、印刷したときの字面や体裁にまで神経質なほどこだわっているのも面白い。
次に、「文章の要素」の中の『品格について』より、本文を抜粋してみる。
文章の品格を保つためには、
以上の三点を心掛ける。
と続きます。
毎日noteに見聞きしたこと、感じたことを明け透けに吐露している身としては、非常に耳が痛く、谷崎先生が標榜する雅の心とは程遠い文章を書いている自分に半ば呆れますが、当時はSNSもなく、時代背景がまったく違いますので、参考にさせていただく程度にとどめておきましょう。
我が国は生活様式だけでなく、考え方、文章表現に至るまで、欧米に倣いながら近代化を遂げました。
世界に打って出るためには必要なことかもしれませんが、我勝ちに…と前のめりになるのは好ましい姿とはいえません。
日本人の美点ーー含羞のようなものは失いたくないと思います。
※引用部分の表記は一部変えてあり
ますが、御了承ください。