書き続けること
noteを毎日書いて何になる。
これはもう数え切れないほど繰り返してきた自問自答。
何のためにと考え出すと堂々巡りでいつも振り出しに戻る。
noteを投稿することが習い性のようになってしまった。
投稿した途端に、さて明日は何を投稿しようと膨大な下書きから選択し、足したり引いたりしながら、修正が始まる。
指が勝手に動き出す。
膨大な下書きといっても数行だけ、タイトルだけのものが大半だ。
新聞を読んで、テレビを観て、本を読んで、散歩をしていて、家族や友人との会話で、下校中の男子中学生の会話を盗み聞きして、これらから閃いたタイトルを残すことが日常茶飯事になった。
noteを始める前のわたしはいったい何をしていたのだろう。
コロナの出口が見えず、気分が塞いでいた。
夫が定年退職を控えていて漠然とした不安があった。
60歳の誕生日を迎えて、これからの下り坂人生を思うと暗澹とした気持ちになった。
気分が落ち込む出来事があり、夕日を見ると涙がこぼれた。
それ以前も、noteに割く時間を、読書や新聞を読むこと、テレビを観ることに充てていたような気がする。
だだ、何をするにも、今よりも注意散漫だった。
今ならすべての行動がnoteのネタ探しになっている。
長いようで短い人生。
今日明日にも終わるかもしれない人生。
noteに限らず、自分の本当にやりたいことを見つめ直し、やるなら今でしょ!
それがなにかも未だわからないけれど、noteをやりながら見つける手もある。
本当にやりたいことに蓋をして来た。
与えられた役割だけをこなして来た。
さて、自分は何のために文章を書いているのか。
毎日考える。
実は昨日、ひょっこり答えが見つかったのだ。
この方のこの作品の中に。
↓
小説の中で、書店員同士が
ある本のことを語り合う。
「書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集」という本だ。
わたしはこの部分を読んで、大きく
頷いた。
この本を探して読んでみたい。
まず図書館で予約して、気に入ったら買おう。
わたしは慎重派。
それとも吝嗇家?
ハードボイルド書店員さんと
ブコウスキーさんに感謝致します。