『建築家のドローイングにみる<建築>の変容 −−ドローイングの古典、近代、ポストモダン』 15
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4-1-2. 建築における「暴力」 <自律性>の解体
チュミはその後の『建築と断絶』という著作において、「プログラムや行為やイベントなしに建築はありえない」(74*)と繰り返し主張する。『トランスクリプツ』では「出来事」「運動」「空間」という3つの領域の関係だったものが、『建築と断絶』では「出来事」と「運動」が統合され、建物/物体/空間vsプログラム/行為/イベントというような二項の対立となっている。しかしここでも、ハードである建物単体によって自律的に建築が成立する、という考えに対し、ソフトとして出来事(イベント)の次元を持ち込もうというのがチュミの批判の主旨である点に変わりはない。「建築は決して自律的ではなく、純粋な形態としては存在せず、そして同様に建築はスタイルの問題ではなく、言語に還元することもできない」(75*)というように、彼は建築を様々な領域の横断あるいは複合によって成立する出来事の総体として捉えるのである。
「モダニティの時代」、すなわち近代建築の時代が考えたように「建築的空間は自律性とそれ自身の論理を持ちうる」のではない。「建築は、ただ使い手との不断の交わりの中に受動的に従事している有機体であるに過ぎない」(76*)と彼は主張する。建築とは単体で成立する空間芸術ではなく、その利用という外的なファクターが重要な役割を果たし、それがあって初めて建築となる、というのがチュミの考えである。
「建築は彫刻ではなく、そこで何が起きるかが重要であり、こうした施設が運動と空間の衝突の発生、いかに活動の発生源になり得るかという部分が重要です。単なるコンテキストや運動というだけでなく、イベントが重要でした。したがって、公園は常に活動と、これから起こり得る活動を受容する場であるべきです。建築はフォルム、つまり静的な定義づけだけでなく、イベントであり、動的、力学的な定義づけで論じられるべきです。」77*
あるいはまた空間と出来事という2項関係は、「空間」と「その利用」ないし「空間のコンセプト」と「空間の体験」とも言い換えられる。
「建築は、相反する二つの概念をめぐるものなのだ。その概念とは、空間とその利用、あるいはもっと理論的な意味においては、空間のコンセプトと空間の体験である」78*
ここで重要なのは、彼がこの2項間の関係について、「空間のコンセプトと空間の体験、または建物とその利用、または空間とその内部での肉体の動きとのあいだには、因果関係はない」とし、のみならずそれらが「相反する概念」だとまで考えている点である(79*)。
そもそも建築において、空間性のみではなくその使用あるいは機能も重要な要素である、という考え方自体は、ウィトルウィウスの「強firmatas」「用utilitas」「美venustas」の三分法以来繰り返し主張されてきたものであり、西欧の建築の概念としては伝統的なものである。しかしチュミの「利用」は、このような伝統的な「用」とは全く異なったものとしてとらえられなければならない。もしチュミの主張を単に、建築の「用」すなわち機能的側面を重視しているものとして理解するとしたら、それは不十分であるばかりか全く正反対の、誤った理解である。
建築において「用」の要素を強調することは、機能主義に結びつく。機能主義は、ある特定の利用を目指して設計され、特定の機能を果たすべきものとして建築を考え、利便性、機能性こそ建築の最も重要な評価基準だと考える立場である。サリヴァンの「形態は機能に従う」という主張をメルクマールとして、「近代建築」において機能主義的要請はますます強いものとなった。この立場はいわば建築とその機能、言い替えるなら「空間」と「その利用」とを同一視し、両者のずれを極力縮小し、両者の間に一対一の対応関係を形作ろうと試みる立場である。
これに対して、チュミの主張は他ならぬこの対応関係に対して疑義を提出し、それに真っ向から反対するものである。
「『トランスクリプツ』の仄めかすプログラム的な暴力は、生存と生産に不可欠な機能主義的要求だけを厳格に適えてきた過去の人間主義的プログラムを疑うものである。」80*
それ故それは機能主義とは全く異なった仕方で建築の機能を問題にすることであるといえる。
「今日のプログラムのアイディアを論じることは、決して機能対形態という概念への後戻りを意味しない。・・・反対にそれは、最終的に空間をその中で起こる出来事と対決させるような探求の分野を開く。」81*
彼の用いる「プログラム」「利用」「コンセプト」「出来事」等といった一連のタームは、「物体」「空間」「建物」と対応関係にあるどころか全く相反するものであり、それらと対立し、撹乱し、変容させてしまうような「暴力」としてある。チュミはまずこれらを相互に独立したものとして切り離す(「出来事は独自の独立した実在を持っている。それらが純粋にその環境の結果であることは滅多にない。出来事はそれら独自の論理と、独自のモメントを持っている。」(82*))。そしてその上で、それらを機能主義とは全く反対に、あえて調和せざる異質な関係づけのうちに置き直し、建築を葛藤状態に置くのである。
「出来事と空間と運動の間の際立った関係だけが、建築的な経験をつくり出す、というのが『トランスクリプツ』の議論である。しかし、『トランスクリプツ』は物体と人、出来事の間の矛盾を超越し、新しい綜合へともたらすことを決して試みない。全く反対に、それらはこの矛盾を動的な仕方で、無関心さや相互関係、葛藤の新たな関係のなかに維持することを狙うのである。」83*
チュミが「暴力」とよぶこのような葛藤状態こそ、『トランスクリプツ』の提起する建築のあり方であり、彼はそこにバルト的な「葛藤から結果する快楽」(84*)を見出すのである。
『トランスクリプツ』の中でも「MT4:The BLOCK」はこのような葛藤状態を最も良く示している。MT4ではまず、「空間」、「運動」、「出来事」が対応した状態の組み合わせが、上下に1セットとなって、A, B, C, D, Eの計5セット提示される(図31)。
そしてこれらの組み合わせが様々に入れ替えられることによって、新しい建築が次々にそこに立ち現れるのである。チュミは3つの次元を組み合わせるパターンについて、三種類の関係性を挙げる。
1)「機能的functional」で「同質homorogeneousな」関係。これは図31で示されたMT4も最も初期の段階であり、記号的にはA1, A2, A3というような同一セットの中における従順な配列である。この配列の持つ意味は、「スケート選手がスケート場でスケートをする」といったようないわばもっとも日常的な連合関係であり、それが「機能的」と言い表されていることからもわかるように、正に機能主義的な対応関係であるともいえる。
2)「断絶された異質なheterogeneous」関係。記号関係としては、A1, E2 , B3というように表され、「クオーターバックがスケート場でタンゴする、軍隊がタイトロープ上でスケートをする」などといったように、第一の関係の持っていたような機能的主義的連関が破棄され、独立したものとして「断絶され」たのち、違ったやり方で再配列されて新たな関係の可能性を提示する。
3)「完全に交換可能な」関係。これはMT4の最終段階にして『トランスクリプツ』における最もラディカルな関係性である。A3, B1, C2というような記号の配列で表されるように、ここでは「空間」、「運動」、「出来事」のカテゴリーの垣根すらもが崩壊し、交錯する。「そこでは人びとは壁であり、壁がタンゴを踊り、タンゴが公職に立候補する。」(85*)
MT4において、建築はこの三種の関係性の段階を移行しながら、着実に解体へと向かっていく。その過程で我々が目にするのは、期待される空間の機能とは無関係な、それどころか相反する「出来事」によって、建築が「暴力」を加えられ、変容されていくさまである。
チュミの建築は、「空間」vs「イベント」、「建物」vs「プログラム」、あるいは「空間のコンセプト」vs「空間の体験」といった二つの次元が乖離してしまい、さらには相反性すら持つ葛藤の状態を扱うのだが、彼はそのような不調和的な状態に関して、「空間とイベントの断絶は、それらが共存せざるを得ないという事実と共に、我々の時代の状態の特徴である」と語る(86*)。
「自分自身に焦点を合わせることで、建築は避けがたいパラドックスに突入した。そのパラドックスとは、他のどこよりも空間に存在するものである。それは空間の性質を問う一方で空間的な実践を体験することの不可能性である。」87*
「空間の性質を問う」とは「空間のコンセプト」の次元における問題であり、それは「空間的な実践を体験すること」とは同時にはなされえない。(「定義上から見ても、建築的コンセプトは空間の体験の中には存在しない。繰り返すが、空間の性質を問いつつ、同時に実際の空間を体験したりつくったりすることは不可能なのだった。」(88*))チュミはこのようなパラドックスの状態を「新しい分裂」(89*)と呼び、そしてそれは建築が「自分自身に焦点を合わせる」ことによって起こった、と述べている。「自分自身に焦点を合わせる」とは、建築が自らの定義を問い、その限界を見定めようとする段階に入ったことを意味している。
<建築>は、実践として建築をなしていく正にその時にも、一方では同時にメタレベルの眼差しによって自らの意義について自問し、建築の限界を模索する。この時、建築は理論の領域と体験の領域とに二重化し、多重人格的に分裂する。このような分裂の意識は、建築が実践の領域におけるものとしてしか存在しなかった近代までにおいては起こりえなかったことであろう。そこには建築は何であるか、という問いはない。あるいはたとえあったとしても、本論の冒頭に述べたような一般的な理解と同じく「建築」とは「建物を建てる」ことである、とする極めて実践的な定義によって答えられるようなものであっただろう。
実際の建築体験としての建築がある一方でその建築の理論的な意義を問う、建築の二重化された自己分裂の結果として生じた、コンセプトと体験の間の葛藤状態――このような分裂した様態は、例えば美術の領域におけるデュシャンの「泉」のような作品の異質性と類似のものである。それは二律背反(アンチノミー)的な葛藤――便器としてのそれと芸術としてのそれの間の――を内に含んだ分裂的な状態のものであり、そのようなものとして従来の美術への<批判>をなす。
とはいえまたチュミが言うように、この分裂が「建築そのものの性質と、その基本要素「空間」の性質に関する根本的な問題」(90*)だとすれば、建築家はその問題を付随的な事柄として等閑視してしまうわけにいかない。チュミが「この切断状態は軽蔑すべきものではなく、むしろ非常に「建築的」である」(91*)と述べるように、すでに分裂状態へと達してしまった現代においては、この葛藤こそがまさに主要な建築の問題だといえるのである。そしてそのような問題を問題として提示し、この葛藤を顕在化することが『マンハッタン・トランスクリプツ』の目的であり、それを可能にするものこそドローイングという存在に他ならない。
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74* チュミ『建築と断絶』, p.7
75* ibid.
76* ibid., “ILLUSTRATED INDEX THEMES FROM THE MANHATTAN TRANSCRIPTS”, XXI
77* チュミ, アイカ現代建築セミナー『VECTORS AND ENVELOPES』
78* チュミ『建築と断絶』, p.18
79* 「(a)空間のコンセプトと空間の体験、または建物とその利用、または空間とその内部での肉体の動きとのあいだには、因果関係はない。(b)これらの相反する概念の出会いは、非常に快いものかもしれないし、または非常に暴力的で、社会の最も保守的な部分を崩してしまえるほどのものかもしれない。」(チュミ『建築と断絶』, p.19)
80* Tschumi, The Manhattan Transcripts, p.9
81* ibid., “ILLUSTRATED INDEX THEMES FROM THE MANHATTAN TRANSCRIPTS”, XXVI
82* ibid., XXI
83* ibid.
84* ibid., XXVIII
85*ibid., p.12
86* ibid., p.20
87* チュミ『建築と断絶』, p.30
88* ibid., p.71
89* ibid., p.30
90* ibid., p30
91* ibid., p.8