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1,000文字のアートレビュー③ 安田登×塩高和之『夢十夜 第三夜』

松陰神社前の小さなスナックでの能楽師・安田登と琵琶奏者・塩高和之の共演。mizhen佐藤蕗子を朗読に迎えた『耳なし芳一』、『海人(あま)』『山月記』とお酒と。

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空間

15年前宮城で薪能を観たきりだから、実はほぼ能をみたことがない。
代わりにというか、なぜか能舞台ではなくアパートの一室やスナック、寺のお堂と、狭空間ばかりで能の舞(そのものではないが)をみてきた。

建築をしていたからか、その空間や延長を伸縮する力にいつも驚く。牛歩のようなすり足、数cmのストローク(「ハコビ」というらしい)のはずが、魅入るうち、青坊主を背にすでに長い途を来ている。


時間

あるいは時間の分解能なのか、能の一歩には無限の分節がある。アニメーションダンスにも似ているが、視覚的にでなく内的に時間が変化する
「シカケ」の腕はすっとは上がらず、見えざる力と拮抗している。能の所作には常に拮抗がある。多元宇宙とせめぎあうように、数知れない葛藤の中でそれは生じ、生まれなかった可能態の積分値がエネルギーとして、質量を、重力場を生む。

そしてアインシュタインが言ったとおり、重力場は時間の流れを変える


「間」は日本のお家芸だが、この日の「間」も凄かった。間に息をのみ、畳み掛ける間に高揚する

そして「間」は記譜を逃れる余白、つまり即興的だ。

二人にジャズのバックグラウンドがあるのは偶然か必然か。そういえばエリック・サティの名も聞いた。


隠喩

能と琵琶のもう一つの共通項、隠喩性

かざされた扇が雨よけとなり雨を降らし、あるいは刃となり海女の肉を裂く。
弦がはげしくかき鳴され、擦られ、押し込まれ、揺らされる。バチが板面を打つ。琵琶の隠喩は時にambientで、時にconcreteだ。霧のように不安を充満させ、コツ、コツ、と足音が迫りくる。


倍音と魔術的環世界

更に進むとわれわれは、大変強力だが主体にしか見えない現象が現れるような環世界に足を踏み入れる。それらの現象はいかなる経験とも関係がないか、あるいはせいぜい一度の体験にしか結びついていない。このような環世界を魔術的環世界と呼ぼう(ユクスキュル)

幼な子やピダハン族の「体験」は、外的刺激の知覚とは別ものだ。

能の謡は身体をして共鳴せしめ、琵琶の弦は共振し、その「倍音」になぜと知らず鳥肌が立ち、体験が実態となる。これが論語にいう「」の力か。

空間と時間の揺らぎの、即興的な間の中で、隠喩が紡がれ、倍音がそれをembodyする。

それは実質的現実(virtural reality)だ。


能楽と琵琶とともに、漱石の三夜目の夢を生きた。


(2019年7月11日 安田登×塩高和之『夢十夜 第三夜』)


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