[小説 祭りのあと(4)]八月のこと~夏祭りのあと(前編)~
シャッターを開けると熱風が屋内へ一気に滑り込んできた。僕は思い切り顔をしかめた。
炎天下のアスファルトには蜃気楼が揺らめいて、僕たちの体力を順調に奪っていく。
アーケードには赤い提灯が飾られてきた。大学生はめっきり減り、見慣れない服を着た人々を街中でも見るようになった。
宇部にもお盆がやってきた。そして恒例の夏祭りの日が近付いてきた。
金座商店街が一番賑わうと言っても過言ではない日が、間もなくやって来る。
昨日の店主会の一番の話題も夏祭りの件だった。何処がどの露店を出すのかなどを最終確認する場の筈だった。
「すみません。うちの店、出しもんを今から変えてもええじゃろうか……」
岡本製菓店の店主である光男さんが、突然そう言いだしたのだった。
「今からか……どうしたんです、カルメラ焼じゃねーもんにすんですか?」
場を仕切る大崎代表が尋ねた。申し訳なさそうに光男さんは頷いた。
「すみこさん、お身体そんなに悪いの?」
鈴屋呉服店の女主人である鈴谷さんが、いつものように直接的に尋ねるので、皆が一同躊躇した。
「そういえば最近、お店に座ってねーの」
少し間を空けて、岡本さん家の向かいにあるナガタピアノの若主人が言った。
「ああ、まぁ……起き上がーのもよーせんで。食べー量も少のうなってしもうて……」
光男さんも六十九歳。いわゆる老老介護と家業との両立に疲れてしまっていた。
すみこさんは岡本製菓店の四代目店主であった弥太郎さんに嫁いできた、現在九十二歳のご長寿だ。この春くらいまでは、店番をしながら商店街の人々を眺めながらのんびりと日々を過ごしていた。
今となっては時代に合わないのだが、すみこさんの作るカルメラ焼は芸術品のように美しい琥珀のようだと、僕の父も母も絶賛していた。
僕たちにとっては、遊びに行くといつもカステラの切れ端をくれる、優しいおばあちゃんといった印象のほうが強かった。
「でもばあちゃん、夏祭りをいっつも楽しみにしとりましたよね。久しい顔が見れぇ日じゃって」
陽治が熱を帯びた口調でそう言った。
両親が忙し過ぎて相手にしてもらえなかった陽治は、すみこさんの隣に座っていつもお話をしたり、綾取りなどで遊んだりしていた。
育ての母のようなすみこさんのことが、心配で辛くてたまらないのだ。
「その日くらいは何とか出ーことはできんのですか」
その意見に援護したい気持ちも当然あった。
だが光男さんの疲弊具合を見ると、そう易々と賛成とは言えなかった。
「分かりました。うちの出しもんは親と嫁に任せて、俺がすみこさんのお手伝いをします。どうかお願いします。光男さん、俺にやらしてください」
光男さんは、陽治とすみこさんとの関係もよく知っていた。隣に座っていた仏壇店の蒲田さんに聞いたのだが、陽治はしばしばすみこさんを見舞っていたのだそうだ。
光男さんは了承した。そこまで言うのだったらと、一同賛成した。
「なぁしもやん。俺のこと、手伝ってくれんかな……」
「へっ!?僕が?」
去り際に突然陽治が言うものだから、僕はへんてこな返事をしてしまった。
気持ちは分からないでもないが、僕もヨーヨー釣りの準備と仕事との両立で、結構大変なのだ。
「あのな。ばあちゃんな……もう長くないんよ」
「えっ!?」そんなに深刻な状況なのか?どういうつもりで、すみこさんにそんな無理をさせようとしているんだ?
「だったら尚更、お祭りなんかできんのじゃないんか!?」
僕はさすがに声を荒げた。
すると体格の遥かに立派な陽治が、肩をすぼめて恐縮してしまった。
申し訳なさそうなか細い声で、それでも彼は譲らなかった。
「そうよな……でもだからこそ、最後の夏祭りを楽しいもんにしてあげたいんよ」
子供たちのはしゃぐ声と、手持ち花火の弾ける音が聞こえた。小さくなった陽治とその笑い声とが僕の中で重なった。
そしてその時にまた、右ポケットの石がほんのりと温かくなった。
陽治の思い出を、寂しい結末にはさせたくないと、素直に思えた。
「もう百本、お願いします!」
「おい信。もう三周目だぞ!身体にくるからもう止めとけ!」
「コーチ、もう俺には時間がないんです!お願いします、これで終わりますから!」
高校球児は悲壮な決意を素直にぶつけた。
「ファイト!まだまだ取れるぞ!」
「まだ二十球!足が動いてないぞ!」
「それでへたるヤツじゃないだろ、信!」
「いいぞ!返球完璧だ!」
仲間はそれを察知して、口々に精一杯の言葉で彼を鼓舞したのだった。
烏山信は高校二年生。ようやくレギュラーを手にして、この夏の甲子園県地方大会でも準決勝まで駒を進めた。
ところが三年生が引退してこれからという時に、父親の仕事の都合で宇部を離れることになってしまった。
時間がないというのは、そういう理由なのだ。
「急じゃったな、信」
「ホントよ。登校日に急に言うんじゃけ」
諦めがついているように信くんは笑った。
「仕方ないわ。まだ一人じゃよー生きていけんし。親の都合ならどねーもこねーもならんもん」
そう言った信くんの前に、桜井さんが友達と楽しそうに話しながら歩いてくるのが見えた。手には商店街のチャレンジショップの紙バッグがあった。
「おい、あれ桜井じゃろ。お前どうするんよ。好きなんじゃろ?」
「えっ……でも俺、もうすぐおらんなるし」
「そんなん、どねーもなるんじゃないんか?一生の別れじゃあるまい」
そんなことを仲間と言い合っているうちに彼女たちとの距離がどんどん縮まってきた。
信くんの心は動揺し、混乱していた。
「あ、まことくん。今日も練習、お疲れさまでした。今日も暑かったのー」
「お、おお。大分しごかれたけぇ疲れよったよ……」
頭が真っ白でそこから先の会話が続かない。
同じクラスなのに、信くんにとって桜井涼という少女は、完全に別の世界の人間だ。
野球一筋の男子と絵画の世界を目指す少女。接点など一切ないと決めつけていた信くんとは違い、桜井さんはそんな彼にいつも親しく話しかけていた。
話が続かないのは、信くんの思い込みだけが原因だった。
原口くんに背中を小突かれる信くん。
「おい。ここしかチャンスねえぞ。思い切って言えよ」
そうこうしているうちに、桜井さんたちは先を急ぎ始めた。
「ほら、行け!」
原口くんと大塚くんに背中を押されて、信くんは前のめりで危うく転びそうになった。その勢いが、彼に素直な想いを口走らせた。
「えっと……なあ桜井……あさっての夏祭り、一緒に行かんか?」
信くんの言葉に桜井さんは軽く首を傾げ、漆黒のストレートの髪をなびかせた。
「うん。いいよ」
「私たちと行くんじゃなかったん?」
「うん、そうだけど……今年は烏山くんと行くことにする。ごめんね」
彼ら高校球児の目には、桜井さんの表情が心なしか嬉しそうに見えた。
「それじゃあ……アーケードの西口に待ち合わせでいいか?」
桜井さんは微笑みを浮かべながら無言で頷き、友達と共に歩き去った。
「……」
とぼけた顔で立ち尽くした。あまりにも上手く行き過ぎだ。
「マジかぁ!?」
「フゥ~ッ!」
はしゃぎ過ぎた二人に、信くんはバッグで叩かれ、蹴りを入れられた。
「やりよったのー信!ちゃんと想い、伝えるんよ」
「ホントよ。諦めーなよ。何が起こるか、やってみんと分からんもんだぜ」
皆の言葉と手荒な祝福に苦笑いしながら、彼は決心した。
想っているだけでは、何も叶わないんだ。
この夏祭りは自分にとって、特別な思い出にすることを。
「ああ、陽ちゃん。今日も来てくれたんかい。いつもすまんねぇ」
「ばあちゃん、そんなんいいんよ」
起き上がろうとするすみこさんを制したのは、そのすみこさんに教わった穏やかで優しい陽治の表情だった。
すみこさんもまた、この彼が一番好きなのだ。
「ええもちろんよ。ほら、あの赤い提灯。子供たちの声も聞こえーわ。もうお盆じゃね。でも今年はもう、立てんわねぇ……」
自らの終わりを悟ったかのほうな表情。
陽治は耐えられず、目を逸らした。
「ばあちゃん。ほら、あのカルメラ焼。ばあちゃんのカルメラ焼、綺麗だったじゃろ」
「ああ、そうねぇ……もうあんな風には作れんじゃろねぇ」
軒先に吊り下げた南部鉄の風鈴が、そよ風に揺られて微かに音を立てた。
「ねえ、ばあちゃん。今年俺が手伝うけーさ、もう一度作ってみん?カルメラ焼」
突然の提案。だが、すみこさんは力なく答えた。
「陽ちゃん、ありがとうね……あぁ、やってみてーねー。でも、こねーな身体じゃあ、陽ちゃんに迷惑かけーけー……」
陽治の目が思わず潤んだ。
「駄目よ!夏祭り、いつも楽しみにしてたじゃろう!元気になってカルメラ焼いてよ、そんでまた元気になるんよ!俺が絶対にばあちゃんを支えるから、やろうよ!」
陽治の声が微かに震えていた。
すみこさんは陽治の思いを痛いほど分かっていた。
当然自分自身の残り時間も知った上で。
「そうかね……大丈夫かのぅ……」
「大丈夫。ばあちゃんは座って焼いとるだけでええけぇ。準備は俺に全部任せて。座ってカルメラ焼いて、お喋りして笑って。笑うのが一番、身体にいいんじゃけぇ」
すみこさんの表情が、力なくとも確かに陽治に向かって微笑んだ。
その表情が答えだと、陽治は確信した。
商店街から脇道へと駆ける幼い姉妹のはしゃぐ声が、窓越しで軽やかに響いた。
「すみこさんにとって特別な日にせんといけんよな」
僕の言葉に、陽治は同意した。僕は続けて提案した。
「そうだ。カルメラ焼って茶色じゃろ。これをカラフルにしてみんか?」
「えっ、どうやってするんよ?」
幸が冷たい麦茶を用意してくれた。
「綿菓子って最近カラフルじゃろ。あれは砂糖に色が付いとるからなんよ。これをカルメラにしたら、綺麗じゃない?」
「わぁ、それ凄くいい考え!」
「これにすみこさんの技が加わったら、今年の一大イベントになる筈じゃあ」
陽治はこれまで以上にやる気が沸々と湧いてきた。
夏祭りまで残り二日。準備はすぐに始めなければ間に合わない。
陽治はグラスの麦茶を一気に飲み干して、立ち上がった。
「幸、すまん。店と露店は母ちゃんとで頼む。俺はばあちゃんに付きっ切りになりよるけど、今年だけじゃけぇ、お願いな」
「ええ、仕方ないわ。しっかりおばあちゃん孝行してらっしゃい」
幸は快く陽治を送り出した。忙しい筈なのにそれを引き受けた幸には、頭が下がる。
「じゃあ僕は、何しょうか?」
(夏祭りのあと後編↓に続く)