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元4年間無職&引きこもりが会社経営者になるまで

ここまで来て下さった方、ありがとうございます。

初めまして、鶴田です。
かずさんという名前でSNS上では活動しています。

予備知識として、軽く僕の自己紹介をさせて下さい。

僕は会社経営をしている現役経営者です。
26歳で起業しました。

20軒以上の民泊施設管理や清掃業(民泊清掃、ハウスクリーニング、美装、飲食店清掃、共用部清掃など)、福祉事業(訪問型D2Cサービス)、メディア事業(コンサル、教材販売)を行なっております。


今となっては、会社と名乗って良いぐらいには
収益をあげられるようになりました。

上記事業から派生して、民泊コンサル、新規事業立ち上げコンサルなども行なっております。

清掃事業に関しては、地方紙掲載もされています。

↓清掃事業

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↓民泊管理事業


↓Brainにて、教材販売①

完売のスクショ

↓Brainにて、教材販売②

2回目完売スクショ

↓Twitterでの無料コンサル (パンク寸前になり、現在停止中)

コンサル1

コンサル2

コンサル3

コンサル4


今回、なぜこのnoteを書こうと決めたかというと、発信者の想いや信憑性をお伝えし、正しい情報を提供したいと思ったからです。

自称経営者や自称〇〇万円稼ぎました、大学生で月収〇〇万円などを謳い、本人の顔も知らない状態でそれっぽいことを言っている人の情報を信じ、ただ、養分にされることが、日常茶飯事で起こっているのが、SNS上。だって、自称〇〇万円稼いでますっていう人は、最初はその実績がなくて、嘘を発信し続け、それを信じた人からお金を搾取し、その〇〇万円を達成しています。

逆に、本当に実績を出している人がSNS運用を上手くできず、文章力もなかった場合、その人は、”すごくない人””信用に値しない人”になってしまっているのが現状です。

自称経営者や社長に会社の名前聞いたらいいですよ。法務局で調べれば、本当か嘘かすぐに分かりますから。僕の会社は「株式会社LIB」です。調べてもらえば出てきますよ。

SNS上で起こりうるのは、本物が本物ではなくて、”その人が信じたもの”が本物になるという現象が起きています。嘘も本当になります。

怖いことですが、これ、当たり前に起きています。だって、自称月収100万円の人、多すぎないですか?具体的にどうやって稼いでいるのか、細く聞いた方がいいですよ。僕は、一度、自称経営者から経営について、斜め上から意見を伝えられたので、まず、お互いの情報開示をし、それからお話し合いましょうとお伝えし、こちらの会社情報をお伝えしたあと、返信なしです。斜め上から言うぐらいの人なら会社情報を言うぐらい屁でもない、むしろ言いたいようなタイプの人なはずです。でも、こんなもんなんですよ。

話が逸れてしまいましたが、私がSNS上で情報発信をし始めたのは、「正しい情報を欲している人に正しい情報が届いて欲しいから」と言う理由です。


また、よくTwitterで、起業について質問を受けていましたので、ここで自分の信憑性(これまでの経歴や実績)をお伝えし、その後、起業や個人で生きていこうと思っている人のお役に立てればなと思ったからです。

会社概要

ざっくりですが、↑こちらが僕の会社概要です。ちょっと住所は伏せていますが、こんな感じです。LIB(リブ)は、LIfe Is Beautiful(人生は素晴らしい)と言うローマ字のそれぞれの単語頭文字を取ってLIBにしました。


それでは、これから、過去から振り返り、どうやって現在の会社経営者までになったのかをお話しします。


目次
1.〜太っていて、ネガティヴだった小学生時代〜
2.〜何故か標的になり、いじめられた中学生時代〜
3.〜恩師と出会い、物事をより深く考えるようになった高校生時代〜
4.〜理想と相違があり、目標を失い、再度見つける大学生時代〜
5.〜大学卒業後、4年間無職時代〜
6.〜謎のスランプ時代〜
7.〜京都で、ビジネスを開始時代〜
8.追伸

1.ネガティヴだった小学生時代

僕は、両親から物凄く愛情を注いでもらい育ちました。

ですが、かなり太っていた為、小学校では、「デブ」「ぶた」など言われるのが当たり前でした。なので、夏の水泳授業が物凄く嫌いでした。身体のことでいじられるので。

「ネガティヴなままだとダメだ、明るく振舞って、周りには、何も気にしてないキャラに見られるようにしよう」

そう思って、太っていることを自虐にすることで、何も気にしていないキャラを定着させていきました。

2. いじめられた中学時代

中学生になり、何故か「かっこよくないのに、かっこつけている」みたいに言われて軽いいじめが開始した。中学になる頃には、グループが出来ていて、その内の1人が一言そう言っただけで、グループ内には伝染する。そして、他のグループにも伝染もする。僕が、配るプリントが汚いだの、隣の席は嫌だの、近く通るなと陰口言われたりと散々だった。


こういうのって、本当に思い付きで言ったことから始まり、それから少しの間楽しんで、飽きたらやめるか、標的を変える。

少しの間だったけど、いじめを経験して、こういうことは、絶対に繰り返したらいけない、犠牲者を増やしたくない、そう思いました。

この経験をしたおかげで、他人の気持ちをより考えるようになったような気がします。

3. 恩師と出会った高校生時代

高校生時代は、とにかくみんなと仲良くしよう、楽しい学生生活にしようと思い、少しハメを外すようになったかもしれない。幸い、中学時代に同じ学校だった人は、数人しかいなかった為、中学時代の影響はなかった。別にイキって高校生デビューした訳ではありません。テーマとしては、「仲良く」とか「協力」「チーム」みたなテーマで日々過ごしていました。そんな中、この章でいう、「恩師」に出会いました。学年主任の先生です。物凄く厳しい先生で、私自身も思いっきり頭を叩かれたことがありました。ただ、この人は物凄く世話焼きで、相手のことを想っているが故の優しさもあります。また、怒るときも理不尽に怒る訳ではなく、理に適ったものだったので、子供が故の反発はありましたが、言っている内容について反発することはありませんでした。どの生徒にも、同じスタンス、同じ熱量で接する為、生徒が出した答えに、中途半端に対応せず、ダメなものはダメと伝え、何故ダメなのかを本人に考えさせるということをどの生徒にも行なっていました。そして、最適案が出るまで、とことん付き合ってくれました。ここで、完全に培われた訳ではないですが、「なぜ?」「どうして?」という感じで、目の前の問題に、もう一歩踏み込んで考えるということを学びました。ここが、この思考の原点だったと思います。

高校生時代は、サッカー部で「チーム」として活動する難しさも学びました。勝利へ向けての対策や練習、上下関係などをより学んだ気がします。

4. 目標を失い、そして見つける

大学に入学する前に、軽くしか大学での授業内容やその先のことを考えていなかった為、入学したあと、数コマの授業を受けて思いました。

「え、思っていたのと違う」

その後は、友達とほぼ毎日宅飲みをしていました。私生活むちゃくちゃだし、運動せずにほぼ毎日宅飲みをしていた為、どんどん太りました。

そういう日々を過ごしていて、周りが車の免許を取りに行くという空気感になり、僕も免許取りに行こうと思い、車校に通いました。そこで、出会った車校の先生がたまたま「フットサル」(※簡単に言うと、体育館の中や人工芝のミニコートでサッカー)をやっていた為、話の流れで、同じチームでプレーさせてもらうことになりました。その人のチームは、公式戦にも出るぐらいのチームで、チーム内の人たちは、社会人として働きながら、公式戦に向けて、日々練習していました。そこで、プレーしているうちに、意識も高まり、私生活もかなり改善されました。

フットサルを始めたことで、日々が充実してきましたが、生きていくための「目標」はなく、そこを見つけたいと思うようになりました。

実は、僕、電気(自然エネルギー:太陽光、水力発電など)について学ぶ為に大学に入学しました。理由は、高校3年生の時に、ニュースで「東日本大震災」の現場映像を目の当たりにして、ニュースで「電力供給」について、色々議論されていた為、僕も何か力になりたいと思い、自然エネルギーを学んで、力になれれば・・・と入学を決意しました。今思うと、学ぶ時間、実績積む期間などを考えると、その計算だと、役に立てるのいつになることやらと思いますが・・

少し話が逸れましたが、小学生時代に、太っていることを周りから言われ、中学時代にいじめを経験したことから、漠然とですが「人のために何かしたい」「僕に何かできるなら・・」と言う思考があり、大学入学を決めた理由はその思考も関係していました。

じゃあ、「人助けのために、自分は何ができる?」と思った時に、レスキュー隊、救急隊のことが頭に浮かびました。

それから、消防士(レスキュー隊、救急隊)を目指そうと思うようになりました。それからは、

電気科のコマ/朝〜午後

専門学校/夕方

ジム

もしくは、

電気科のコマ/朝〜午後

自宅で勉強/夕方

チーム練習(フットサル)/夜

とどちらかのサイクルを大学1年の冬〜大学卒業まで続けました。

卒業するまでに、消防士の試験は、最終面接まで行きましたが、不合格が続きました。そして、卒業した年までに受からなければ、諦める。そう決めて、卒業後も勉強しましたが、結果受かることが出来ませんでした。

ただ、そこで「もうちょっと、あと少し」とはなりませんでした。

悔いが残らないぐらい、一生懸命頑張ったからです。

そして、消防士がダメだったからと言って、消防士を目指すきっかけとなった「人助けのために、自分は何ができる?」という部分の答えは、他にもあると思いました。人を助ける=消防士という関係性ではなく、消防士という選択は、人を助けるという大きな括りの中の1つの要素であって、全てではないと思い、また次なる目標を探し始めました。

5. 大学卒業後、無職時代

そして、色々な人に会いに行き、その中に海外で支援活動をしている人がおられて、お話を聞き、「これだ」と思いました。

まず、英語を学び、自分で現地へ足を運び、情報を集めよう。それから、何かをスタートしようと思いました。

そう決めてから、半年間バイトを2つ掛け持ちし、朝から晩まで働きました。そして、お金を貯めて、海外へ行きました。韓国、フィジー、フィリピン、オーストラリア・・全ての期間を合わせると、海外で過ごした時間は約3年間でした。色々な人と関わり、文化の違いや色々な考え方を知ることができました。

そして、後に出てくる「民泊ビジネス」をやるきっかけとも言えるポイントは、この4年間無職時代に初めて海外へ行き、泊まったドミトリーでした。

1室に二段ベッドが6個あり、計12名泊まれる宿でした。そこで、泊まっていたら、1人、気の良い韓国人の男性が流暢な英語で話しかけてくれました。実は、この初めて行った海外の場所は韓国で、目的は「海外に行ってみる」ということだったので、韓国に着いた時点で僕の目標は達成しており、明日からどうしようかなーと思っていたところにこの男性が現れたのです。そして、その男性に、知っている単語や翻訳機を駆使して、意思疎通をし、出かけることになり、出会ってから夜通し出かけ、5時過ぎに宿へ帰り、少し仮眠をし、チェックアウト時刻で出るときになって、その男性が自家用車を持って来てくれて、今日はドライブしようと言ってくれました。その後、歩きでは行けなかったような観光地にいくつか連れて行ってくれて、最後は空港まで車で送ってくれました。

「海外ってこんなに面白いんだ」と思ったのと同時に、「ドミトリー最高」と思ったのを覚えています。ちなみに、余談ですが、今となっては、海外へ一人旅するときは、必ずドミトリーに泊まっています。

ここが、宿とか共同生活とかに興味を持つきっかけになりましたね。

それから、海外へ行くことにどハマりして、約3年間ぐらい海外で過ごしました。
そこで、次は「シェアハウス」に住み着くようになりました。
1つの物件内に8人で住む(1つの部屋に二段ベッド2つを置いて、4人で寝る)ような暮らしをしていました。
シェアハウスは合計6軒渡り歩きました。
その中で、1人のオーナーと仲良くなり、シェアハウスビジネスをどうやって回しているのか、めちゃくちゃ聞いて「自分もここ(当時はオーストラリアにいました)でシェアハウスをしよう」と思いつつも、ビザの有効期限が切れる関係で一旦、日本に帰りました。(※海外で支援活動するにも、資金が必要だったため、ビジネスの1つとして考えていました)

ここで、シェアハウスビジネスについて興味を持ち始めました。
正直、最初はシェアハウスビジネスのみをやるつもりでした。

↓フィジー

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↓オーストラリア

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そして、英語力を身につけたので、いざ発展途上国へ向かおうとカンボジアへ1週間向かいました。現地の人と話し、現状の生活やここがどんな国なのか聞いて回りました。夜の繁華街みたいな場所で、座り込んで色々な人と話しました。現地でビジネスをやっている日本人も探して、どんな準備をしないといけないのか、お金はいくらぐらいいるのかを聞きました。そこで、とりあえず「50万ぐらいあれば1年は保つ」とのことだったので、日本で50万貯めて、カンボジアでビジネスをしようと思い、日本に戻りました。
ここでは、何のビジネスをするのか、具体的には決まっていませんでした。

↓カンボジア

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6. 謎のスランプ時代

志高く、日本に帰りましたが、謎のスランプに陥り、モチベーションが上がらず、3ヶ月家に引きこもりました。外に出ず、ひたすら部屋でネットフリックスを見て過ごしました。

そんな日々を過ごしながら、ある日、外に出る機会があり、外に出ました。

そこで、久々の日光を浴びた時に、危機感を感じました。

「え、太陽ってこんなに眩しかったっけ?」

そして、鏡を見て「え、自分ってこんな風貌だったっけ?」

それから、”動き出さないと”と思い、動き始めました。
とりあえず、英語を使って稼ごうと思い、個人対個人の英会話教室をしようと思いましたが、うまく行かず、もう比較的、英語需要のありそうな土地に行くしかないと思い、京都か東京に行こうと考え、京都に決めました。

7. ビジネス開始

お金をほぼ持っていなかったので、宿はフリアコ制度を使って確保、そのままゲストハウスでアルバイトをしながら、ある不動産会社の人と出会い、その人が民泊ビジネスをやりたいと言っていたので、一緒に始めることにしました。なぜ、ここで、民泊ビジネスをやってみようと思ったのかというと、以前シェアハウスをやりたいと思った気持ちやドミトリーに住んで楽しかったという体験と繋がったからという理由と海外で支援活動するには、資金が必要だから、ビジネスはしないといけないと思ったことが理由です。

そして、最初は1軒、それから4軒、そして、どんどん増えて20軒以上になりました。

その後、清掃ビジネスを立ち上げ、民泊清掃、飲食店清掃、ハウスクリーニング、美装、ホテル清掃を次々と展開し、会社も設立。

そして、D2Cにも挑戦しようと思い、訪問清掃サービスを開始し、軌道に乗せました。

半年前からはSNS運用を本格的に開始し、YouTube,Instagram,Twitterで総フォロワー1万人を達成し、現在マネタイズにも成功しています。

紆余曲折しましたが、結果として、会社経営するまでになりました。

8. 追伸

「え、カンボジアのくだりはどうなったの?」

と思いましたか?大丈夫です。これは、必ず実行します。

日本で資金を作り、ビジネスを学んで、現地で必ずビジネスをし、雇用を生み、ビジネス継承をして、カンボジアを豊かにします。カンボジアだけとは言わず、発展途上国の力になりたいと思っています。

僕は学生時代から漠然とですが、

「人のために何かしたい」「僕に何かできるなら・・」

と思っていました。

なので、今の僕の知識や経験で困っている人や現状を変えたいと
思っている人の何か役に立てればと思っています。民泊コンサルや清掃事業立ち上げコンサルを始めたのも「何か役に立てれば・・」ということからでした。

僕のことを知ってくださったのも何かの縁ですので、ここまでお読みくださった方で現状を変えたい、頑張りたいという方がいれば、ご連絡ください。

一緒に頑張りましょう。

かずさん






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