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言いたいことを、suckしても、swallowしても、何らかの形で残ってしまう。

この夏、小さなアパートで2ヶ月間、スウェーデン人の旧友と暮らすことになった。私は細かいことを気にしないタチだから、と自分を間違って理解していたことに気づく。

サンダルで部屋の中をうろちょろする。ゴミを仕分けしない。野菜を買ったら、放置して腐らせてしまう。部屋のドアを閉めないで調理するから、アパート中が肉臭くなった、等々。日々、小さなイライラを募らせる。

最初の1ヶ月は、いくら私の北欧暮らしが長いからといっても、文化が違うから仕方ないと、無意識ではあったが、言いたいことを飲み込んでいた。

ところが、1ヶ月を超えた頃、イライラや気にかかることが積もっていったのか、外で他の人々に会った時、ルームメイトの愚痴をこぼしてしまっていた。

あなたは言いたいことを飲み込んでいるの?

この出来事を思い出したのは、あるセッションで「あなたは、"言いたいことを飲み込んで/ swallow what you wanted to say"いたの?」と質問したばかりだった。このコーチィ(クライアント)と、ちょうど異文化間の友人関係について話していた。

この質問に、コーチィは困惑した表情を浮かべた。私は直ぐ、あぁ、これは日本語の表現だったのかな?と気づいて、「suck it upってことよ」と添えた。

この「suck(吸い上げる)」と「飲み込む」の感覚の違いが面白い。「言いたいこと」を掃除機みたいに空気でパッと吸い上げて無かったことにするか、固形の飲みにくい異物を無理やり飲み込んで無かったことにするか、湧き出た気持ちをあたかも無かったかのようにするにも、ちょっとした違いがある。飲み込むのはちょっと苦しそう。

でも、どちらも同じなのは、吸い込んだものでも、飲み込んだものでも、そのものは消えなさそうなことだ。

吸い込んでも、飲み込んでも、消化されて身体に吸収されるか、消化しきれないこと(腑に落ちないこと)は排出される(他の人々へ拡散される)か、体内のどこかに沈殿する(無意識的ストレスになる)かもしれない。

元々、異文化間の人間関係において大事なことはなんだろう?

たぶん「お互い(の文化)を理解しようとすること」なのではないか?これは異文化だろうが、同じ文化だろうが、本当は変わりがない。

では、お互いを理解する上で、妨げになるものはなんだろう?

「自分を正直に表現しないこと」ではないだろうか。言いたいことは、「言うべきこと」であって、吸い込んでしまったり、飲み込んでしまっては元も子もない。これらを伝えなければ、相手が何を考えているのかという主要な情報は伝わらず、理解は深まらない。誤解があった場合、訂正することもできない。

また、伝える側は、自分の価値観や考えを「伝えるべき価値のあること」と認める。そして、闇雲に自分の苛立ちや思いを表現するのではなく、できるだけ丁寧に、相手に配慮して伝えること。

「飲み込んでしまうこと」は、実は、自分を「表現されなくても良いもの」として扱っている。相手に自分の価値観を伝えることは、相手に自分を受け入れてもらうためではない。相手の反応に関係なく、自分が「自分自身」を認め、自分がその表現を受け入れるための行為だ。

・・・
ルームメイトについての文句を、第三者に言っている自分に気づいてから、「これは、まずい」と気づいた。正直言って、全てが伝わったとは思えない。でも、自分を伝えようと多大な努力をしたこと、そして今も継続している自分を励ましている。

そして、それを相手がどう受け取るかを、自分は知り得ないし、関係性の行き着く先をコントロールできないことも知りながら。

追伸:自分にとって難しいことを相手に伝えるとき、「相手」の態度を攻撃するのではなく、相手の態度を見て「自分」がどう感じたかを伝えるのがポイント。ノン・バイオレント・コミュニケーションについてはまたいつか。

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