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dichotomy(二分法)の限界。

日常茶飯事な、dichotomy(二分法)

するか、しないか?白か、黒か?成功者か、敗北者か?
天国か、地獄か?金持ちか、貧乏人か?
トランプか、バイデンか?ペプシか、コカ・コーラか?

世の中は「AかB」のような、全く異なるものとして表現される2つの事物の対比、比較、選択で溢れている。

仁義なき、dichotomy

それは本当?
考えることは、本当に二つしかないの?

dichotomy/二分法が苦手だ。
たぶん、元々心理的に、二者択一が嫌いだからだろうか。追い詰められているような脅迫感がする。

心底「嫌だなぁ」と自覚したことがある。
それは、北欧の大学院でdebate(討論)した時だ。

英語で行われる学科だったので、クラスには世界中の生徒がいた。アジア人の学生も少数いたが、ほとんどが欧米のクラスメートだった。

彼らの多くは単純に白黒つけるdichotomy的に意見を言うのが得意だった。

自分の選ばない側を、180度真逆の「仮想・敵」や「仮想・悪」とする。あなたの意見はこんなに間違ってる、それに比べて私の意見や立ち位置はこんなに正しい、と白・黒を単純化して、明確にする。

これは、他者から見て、とても分かり易く、自分の意見へ賛同させるのに都合が良い。コケ落とされた側は、「そんなにシンプルなことではない!」と自分の考える意見を説明しようと試みるが、短い時間で他人を納得させるには、複雑過ぎて、時間が足りない。

また、白黒つけない意見は、正負を決める勇気と決断力がない、と一笑されてしまう。

dichotomy(二分法)の限界

ただ、世の中には、そんなに単純なものなどない。

なのに、討論者が二点にのみ焦点を当てることで、聴衆は二点以外のものが存在しない錯覚に陥る。だから、そこから選ばなくてはいけないような強迫観念を感じる。他方の間違いや問題点を洗いざらい並べて、それを選ぶことへの嫌悪感や恐怖を育てる。

もしかしたら、その両方とも間違っているかもしれないのに。

二者択一から選ばなくてはいけない状況は、切羽詰まった状態を作り出す。自分の正義かどうかもわからないまま最もらしい方を選ぶよう押し流される。

アメリカの大統領選挙は記憶に新しい。アメリカの友人が選挙前に言った。「問題はトランプかハリスではない。本当の悲劇は、国民の多くがどっちの候補者も嫌なのに、二人のうち一人を選ばざるを得ない状況なこと」。

今起こっている各地の戦争での武力行使・人殺しは、議論の余地なく「悪」だ。ただ、各国の視点の「正義」を、誰も中立に善悪を判断することはできない。残念ながら、イスラエルの建国を承認した国連が中立だと、多くの国は思っていない。

dichotomy(二分法)ではなく、holism(全体論)

dichotomy(二分法)に陥りがちな世界や我々の思考に、どう立ち回るのか?

以前、私は学校、職場で「どちらも選ばない」と言ったり、そういう態度を示したことが何度かある。そしたら、「あなたは意見がない。自分がどっちに立つか決める勇気がない。曖昧な人」と言われた。

自分には意見や決断力がないのか?自分には勇気が無いのか?と、西洋と日本文化を行き来する私は、長年苛まれてきた。

半世紀以上生きてみて、私が気づいたことは、「討論」自体が嫌いなわけではない。納得して決める勇気もある。討論は、とても大事だ。さまざまな意見をぶつけ合い、折り合いをつけていくプロセスが好きだ。

ただ、自分の推す意見が全体を間違った方向に導くような、holism(全体論)を欠くような討論は、大嫌いだ。dichotomy(二分法)に聴衆を釘付けにし、specific(特定)にし過ぎた討論は、危険だ。

holistic(全体論)な討論とは、全体を見ている(メタ視点)。何のための討論なのか?全体はどこへ向かうべきなのか?そのspecific(特定)な事象はどこへ繋がるのか?

時間はかかっても、お互いの意見をちゃんと聞き、真剣に理解しようとし、その中で落とし所を決めて、折り合いをつけていこうとする討論。だから、聴衆の側も、忍耐が必要だ。世の中のことで、簡単に分かる、決められることなど、ほとんどないことを理解して、曖昧な状態(白黒ではなくグレー)を楽しむ姿勢が必要だ。

相手を間違っていると知らしめるだけの討論は、戦争と同じ。そのような「愛のない討論」は、討論を「戦い」と捉え、相手を論破することだけに沸き立つ人々。それは、全体を見ていない。建設的な討論ではなく、ただの不毛な戦争だ。討論した後、勝った・負けた以外に何も残らない。

白黒ではなく、バランスと調和。

今、自分の意見がわからない時、私は胸を張って、白黒ではなく、調和とバランスを選ぶ。

日本文化は、陰と陽を受け入れ、バランスとその調和を慈しむ文化とは知っていたものの、最近、ハッキリとした例をNHKドラマ「光る君へ」を通して知った。

平安時代の貴族は、人が亡くなった悲しみの度合いを、黒ではなく灰色のグレー・スケールで着物を選ぶことで表現した。悲しみが深い時は、深いグレーを着て、日が経つにつれそのグレースケールが薄くなった着物を着る。外部の人々は、その悲しみの度合い理解した。

とてもしっくりきた。白か黒で、嬉しさや悲しさを表現するのは、あまりに日本人の感性から離れ過ぎている。人間の感情は、実はいつも「中庸」を行き来する。いつも能天気な人などそういない。

この高度な感性は、平和にも繋がる。

戦後50年のように平和な時代は苦しむ人がいなかったり、武器がなかったり、紛争がなかったわけではない。ただ、お互いが落とし所を見つけて、ひどくならないように、調整してきたに過ぎない。

それ以外に、バランスを取ることはできない。悲しいかな、個々はそれぞれの意見と正義を持つ。それらを尊重しつつも、全体として、どう良くつりあうのか「調和」を目指す以外、道はない。

#熟成下書き


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