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子どもの不登校に揺さぶられなくなった話

子どもが不登校になると
不幸になる

っていうのがSNSで目に入ってきた。


私もこれまで

娘の不登校や行き渋りに対しての
どうしようもない葛藤や
なんでうちだけ?っていう悔しさや
自分責めもあったかもしれない

それを綴ってきたけれど

振り返ってみても
「不幸」ではない。

いろいろあった
大変だったけど
一つ一つ乗り越えていったな

というのが感想としてあるし

これからも
どうなるかわからないけどね

と不測の事態も受け止める土台ができて
だいぶ軽くなった。


つい先週までは
登校時間ぎりぎりに行っていて

(こんなんだったら
 いっそ「行かない」に振り切っていいんじゃないかな)

なんて思っていたけど

今週は
早めの時間を自分で設定して登校し
今日なんて「日直だから1番に行く」と
7時半に家を出た。


ほんと、

わからない。


運動会が近いから?
学校での居場所が増えたから?

↓ 学校の中の居場所の選択肢が増えたことを書いた



そう、

「わからない」を前提におけるようになったのも
大きいし

わからないことが起きても
私自身が
揺さぶられなくなったというのも
大きいかもしれない。



なんで揺さぶられなくなったか?



ひとつは、

子どもは子どもの世界で生きている

と思えるようになった。


大人であろうが子どもであろうが
一人一人違う世界をもっていて当たり前

ひと世代違うってことは
そりゃあ見てる世界も考え方も全然違う

デジタルネイティブだし
脳の使い方も社会のあり様も違う

彼女の世界に反する何かがあるんだろうな

そう思えない時は
私の価値観が凝り固まっている時


教育の方が
もっと今の子どもたちの世界に
寄ってあげる必要はあると思ってるので
そこに声を上げてはいきたいですけどね。



もう一つは、

子どもに芽生えた気持ちは尊重されるべきもの

と思えるようになった。


これは
私自身に向き合ってみて

親の価値観とか
社会の常識とか
先生ならば、親ならば
こうあらねばとか

そういう
「自分じゃないもの」
「自分の外側」
に自分を合わせて生きてきたことがわかって

自分に「芽生えたもの」
これはいやだなー
これは好きじゃない、やりたくない
ここんとこ知りたい、聞きたい
これをやりたい
これが好き

があるじゃん
これを大事にしてこなかったから
息苦しかったんじゃん

って思えたことが大きい。


一人一人
感じるもの
心の動き
それを好きかどうか
やりたいかどうか
負担になるかどうか は
全然違って

その芽生えた想いを大切にされることで
自尊心も育まれる。

そして
全然違っていていいし
違うからいい。

その「違う」ってことが
個性だし、才覚になるし、
それを抑えることは
可能性を狭めることになるとも
思っている。



ということで、

私が子どもの不登校に
揺さぶられなくなったのは

子どもの想いや世界観を
大切にすることが

この子の人生を豊かにするのだ

ということが
自分の経験とも結びついて
腑に落ちたからだったんですね。

それ以上に大切なものなんて、ない。

という軸ができた。


揺さぶられなくなったことで
子どもの精神もおそらく安定して
より毎日に幸せが巡っているとも思います。


そう言う意味では
学校に行かない選択をして
親自身が揺さぶられない状況をつくることも
大事だと思います。

学校に行く、行かないが問題じゃない。
その子が幸せか、が大事。



正直、私は子どものために
自分に向き合っていたわけじゃなくて

自分の人生をより良くしたいと思って
向き合っていました。

結果として

自分が自分の心にまっすぐに生きられるようになり
子どもたちも心にまっすぐ生きてほしいと願い

なんかうまくまとまってきた様な気がします。


シャンパンタワーの法則もそうだけど
何事もまずは、自分から、ですね。


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宮尾多希kazuki
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