思い出のもやもや
先日、久しぶりにもやもや相談室の収録があった。
その中で、ゲストのたなしょーくんが、喫茶ぷらんたんで実施したクラウドファンディングの話をしてくれた。
早稲田大学にほど近い場所にあるそのカフェが、存亡の危機に瀕しているとあって、昔、若い貧乏学生だった頃によく通った、そのカフェのご主人への恩返しを、今こそせねばと、今はそこそこ裕福になった早大OBからの寄付も多く集まり、クラウドファンディングは大成功に終わった。
一緒に話していたクルミドコーヒー店主の影山さんが著書『ゆっくり、いそげ』の中で書かれていた「贈与経済」とか「支援し合う関係」とか「健全な負債感」みたいなものを感じたと言う話だった。
確かにそうとも言えるし、その話の文脈を遮りたくはなかったので、その時は口を挟むことはしなかったのだけれど、僕はその話を聞いて、少し前にあった自分の身近で起こった「ある事件」と、別の「チャリティイベント」のことを思い出していた。それを忘れないうちに書き留めておこうと思う。
ある事件の話
その「事件」は、2020年のコロナ感染拡大が始まり、緊急事態宣言が出て人々が家にこもり始めた最初の頃、ゴールデンウィークが明け学校が再開しようとしていた時に起こった。そこは、いつも僕が子どもを保育園に送りに行く途中にあるビルで、そのビルの屋上から、母子が飛び降り心中を計ったという事件だった。
警察が駆けつけた時には、小学生の子どもは意識があったようだけれど、母親の方は意識不明でその後、その親子がどうなったのかはわからない。
自分の身近で起こった事件で、シングルマザー家庭の貧困と言う言葉は聞いたことがあり、もちろん認識はしていたけれど、実際に自分のすぐ近くにいる、そういう状況にまで追い込まれて困っている人の存在が、目に見えていなかった事にショックを受けた。
それ以上にショックを受けたのは、自分の身近な人から、子どもを道連れにしようとしたその母親を責める声があった事だ。もちろん行為自体は自分の子どもの殺人未遂であり、当然に絶対にあり得ない行為なのだけれど、そこまで母親を追い詰めてしまった社会と、その社会を作ってしまっている自分達の責任については、てんで無頓着にその母親を非難する態度に、強い違和感を受けた事を覚えている。
みかんの木の話
そして、その事件とほぼ同時期に行われていた「チャリティイベント」について。
それは、子どもの通う保育園の改築にあたり、園庭にあった夏みかんの木を切ることになったことから始まった運動だった。
今はすっかり大きくなった子どもたちが、小さな頃に木登りをしたり、みかんを食べたりした思い出の木をなんとか残したいと、卒園生の父母達が企画してチャリティTシャツなどを作成し、その売上金をみかんの木の移植費用に当てようという運動だった。子ども3人がその保育園とみかんの木にお世話になった我が家も、その主旨に賛同して数枚のTシャツを購入した。
そのチャリティイベントは見事に目標金額を達成し、みかんの木は切られることなく移植され、今も改築後の園庭で子どもたちを見守ってくれている。
もやもやポイントは、みかんの木は助けられたが、母子家庭の親子は助けられなかったことだ。
もちろんそのみかんの木を守ろうという運動自体は素晴らしい活動だと思うのだけれど、一方で心中を選択するしかなかったあの親子に対して、僕らは手を差し伸べることができなかった。単なる植物であるみかんの木はみんなで守ったのに、死ぬほど困っているご近所に住む人間の親子を守ろうと声を上げることはできなかった。
まさかそんなに困っているなんて知らなかったし、そうなる前に知っていたら、周りにいる人が声を上げてくれたかもしれない。でも現実には、みかんは助かり、助からなかった親子がいたという結果となってしまった。みかんは見えていたけれど、親子は見えていなかったのだ。
NPOなどの寄付集めや仲間集めなどのファンドレイジングでも、いかに解決したい社会課題を、自分ごとに置き換えて考えてもらえるかがポイントだと言われている。
「昔、通った喫茶店」や「みかんの木」への寄附は、それらが残ることで今後の学生や子どもたちに与える社会的インパクトを合理的に考えて行われたのだろうか。
あるいは、昔、恩を受けたご恩返しという意識での寄付だったのか。
もちろん、そういう意図もあったのだろうけれど、おそらく、それ以上に寄付が集まった理由は、寄付者達自身の、当時の、大変だったけれど幸せな時間の思い出と、その時間をより鮮明に思い出させてくれる媒介としての何かに対して、お金を払ってくれているのでは無いかというのが僕の仮説だ。
今の自分を作ってきた、過去の出来事や感情を思い出させる触媒を残しておきたいという思いが強かったのではないだろうか。
インコの話
以前、お世話になった先輩と、その先輩の家で飼っていたインコの話をしたことがある。先輩のお子さんが大切に育てていたインコが病気になった。そもそもインコは2500円くらいで買えるのだけど、手術するのに10万円かかった。だけど、子どもに命の大切さを学んでもらうために、必要な投資だと考えて渋々払ったよという話だった。
僕はそれを聞いて、子どもに黙ってこっそり似ている別のインコを買ってきてすげ替えても実際は気づかないのではないかとも思ったし、その10万円を途上国の子どもたちのために寄付をしたら、鳥でなく人間の命を助けられたかもしれないのにという返しをしたら、先輩は唖然としていた。
この時、10万円を対価に学ぶべきことはなんだったのだろう?
本来、どんな命も、値段を決められるものではなく、替えの効かない大切なものであるということだろうか。
それとも、僕にとっては相変わらず2500円の価値しかなく代替可能な存在である名前も知らないその鳥が、先輩一家の中では、一緒に過ごすことで、容易に代替できない10万円以上の価値のある鳥に変わったということだろうか。
あるいは、遠くに暮らす知らない人間の子どもの命よりも、一緒に暮らした鳥の命の価値の方が高いということだろうか。
人間の理性には限界があって、理屈で価値の優先順位をつけることは難しい。実際は、日々を過ごす中でコミュニケーションを交わしたと感じる対象を、好きになったり嫌いになったりして、それに左右されながら優先順位を考えるのが普通だろう。
それは極端な話、木だったり鳥だったり、相手がこちらの意図を認識しているかどうか、相手に意思があるかどうかは関係がなく、一方的に自分の中に溜まっていく思いなのではないだろうか。
モニターの向こうの有名人や為政者に対しても、その対象を見た時の自分の状況によって、少しずつポジティブなあるいはネガティブな感情が溜まっていって、その対象を好きになったり嫌いになったりするんだろう。
そして、その一方的に溜まった思いを、いつか何かしらの形で表出させたい、返したいと潜在的に思っているのだと思う。それは報恩性のルールという社会的な「借りたままでは気持ちが悪い」という高次な欲求だけではなくて、自己の存在を表現したいという実存的な「俺はここにいるぞ」と言いたい根源的な欲望なのではないかと思う。
人生は思い出
人生は記憶、思い出でできている。
インプットである外部からの刺激をどう取り入れて、どう反応しアウトプットしたのか、そのプロセスの積み重ねこそが人生だ。その結果として残った肉体や、財産、人とのつながりなどは抽出した後のコーヒーかすみたいなものだ。
肉体で言えば、細胞は常に入れ替わり一瞬でも同じ自分はいない。口に入れる前の食べものや、出した後の排泄物を、これは自分だという人はあまりいないだろう。若い時と老いた時とどちらも自分ではあるけれど、その時代ごとの自分はその時にしかいない。
人とのつながりも、時代によって関係性は変わる。例えば親子であれば、子どもが小さい時と大人になった時とは全く関係性は違うが、同じ人とのつながりではある。過去のある一時点で切り取った、自分にとってベストな関係性はその時のものでしかなく、記憶の中でしか存在していない。写真や動画に残しておくことはできるけれど、それは記憶を呼び起こす触媒でしかなく、現実の今の状況は、その時とは変わってしまっている。
だから、記憶の積み重ねがその人をつくっていると言える。けれど、記憶は曖昧で適当なものだ。常に書き換え、捉え直しが起こっている。古くからの友人と、時間を忘れて思い出話に花を咲かせるのは、思い出し、捉え直し、その時の自分を懐かしむ思考が楽しいからだろう。
自分の中に残すものと自分の外に残すものと
そろそろまとめていかないといけない。
自分の中では、自分の人生というのは記憶や思い出だとして、もう一方で自分が生きてきたことで、世界や誰かに影響を与えていることはあるだろう。生きているだけでメタンガスを出して、消費することで環境を破壊しているだろうし、逆に良い影響を与えることが少しはできたかもしれない。
自分が認識していない誰かが、どこかで自分のことを知ってくれて、好きになってくれたり、嫌いになっていたりするかもしれない。少なくとも自分がいなければ、自分の子どもたちは生まれてこなかったのだろう。
だから、人生は自分の脳みその中だけで完結できるものでは無いのだろう。
ただ、自分が何かを残したいと思ったとしても、それはどこまでいっても一方的な自分の中の思いだろう。
自分が良かれと思ってやることや、愛を受け止めてもらえるかどうかは自分の外の問題であるし、その上、自分の愛の優先順位は理性的なものではなくて、インコやみかんの木を人間の命よりも優先してしまうような、周りから引いて見たら、ちょっと意味がわからない価値判断がなされるのだろう。
結局、みんな自分のことしか考えていない。というか、考えられない。
昔通った喫茶店やみかんの木を残すために寄付をするのも、自分を作ってきた一部である思い出を残したい。誰かに自分と同じ体験や思いをしてもらうことで、その人の中にも自分の残像みたいなものを少しでも残したい。そういう自分本位な欲求からの行動なのでは無いかと思う。
やっぱりまとめられずもやもやが残る。ああ、このもやもやを越えていきたい。
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