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アリとかナシとか論争

お久しぶりの投稿で、なかなか妙なタイトル投下。

皆様ご無沙汰しております。

今年はアートディレクター業が妙に忙しくなったり、色んな方とアートを通してお近づきになれた素晴らしい年でした。

今年まだ終わってないけども。

リアルな世界で猪突猛進に進行中です。
なんやかんやありますが、私は元気に生きてますよ。

さて、前置きはこれくらいにして表題について触れていきたいと思います。

誰しも「これはアリ」「これはナシ」の線引きがあると思います。

もちろん私にもある。

今回は、この「アリ」「ナシ」のボーダーラインについてお話しします。

因みに、これはあくまで私の観点であり、混じりっ気なしの独断と偏見です。
悪しからず。

アリなものとナシなもの

ありますよね。
アリなものとナシなもの。

特に今回論じたいのは、自分の懐に入れる人間のアリとナシについてです。
所謂、心を開くというやつですね。
ライトな意味でなく、家族レベルで心を開く事についてです。

心を開く相手というのは、限られます。
誰でもウェルカムな人間なら関係ないでしょうが、私は誰でも心に入れることができないので、とてもとても慎重になってしまいます。

条件はただ一つ。
私が相手を心から信頼すること。

この『信頼』するにも段階があって、マックス信頼できる人は、要するにアリなわけです。
この人は心の中に入ってきてOK、と自分の中で扉を開けちゃうのです。

ここでいう『信頼』というのは、何があっても相手を受け入れるという覚悟のようなものです。
つまりは、自分の深部までの侵入を許すという意味になります。

こんな書き方をすると重く感じるかもですが、自分の中に他人が入ってくる事は、私にとって一大事なのです。
コントロールのできないものが自分の中に侵入するなんて、恐怖しかないのです。
だからこそ、侵入を許すのは相当な覚悟です。

それ故に、『あ、この人もう無理』となった瞬間、シャッターがすごいスピードで閉まります。
これが所謂『ナシ』の状態です。

そして、その閉まったシャッターは二度と開くことはありません。

アリ寄りのナシ、ナシ寄りのアリって?

私は、一度好きだと思った人を嫌いになりません。

どんなに辛い目に遭っても、悲しくなることを言われても、心から嫌うことが出来ません。
離れていても、心の何処かでその人が元気にしてるかな?なんて考えてしまったりします。

だから、ナシになったとしても、その相手を嫌いにはならないんです。
でも、どうやらこれが勘違いされるらしく、ここ最近の悩みの種でした。

『他の人と違って自分は特別でしょ?』
『だから自分はまたアナタの中に入れるよね?』

なんて思われるのは、何故だろう?

誰も特例なんてありません。
皆んな平等に、ナシになった人はナシなんです。
例え嫌いにならず好きなままでも、ナシなものはナシなんです。

『とはいえ自分は違うでしょ?』
『どっちというとアリ寄りのナシでしょ?』

言ってる意味がわかりません。
ナシと言ったら、未来永劫ナシなんです。
アリに戻る日は二度と来ないのです。
アリ寄りのナシも、ナシ寄りのアリもありません。

アリはアリ。ナシはナシ。

ナシになりたくないという方にはどうぞ、私に対して誠実に接して頂くことをオススメします。
自分がすり減るだけで幸せになれない、と判断しましたら、私の中ではナシに切り替わります。

ナシに切り替わることは、私にとっても悲しい事です。

何様だ?って感じに見えるかもですが、偉そうに他人を評価したいわけではないのです。
自分を犠牲にせず、他人に対して誠実に関わるために、自分の中で必要な選別作業のようなものなのです。

だからこそ、誰かに対しての特例は絶対に生まれないし、私は心の中に入れると決めた人を心から信頼するのです。
私もその人に心から信頼されたいから。

そんな人間に『アリ寄りのナシだよね?』という人は、たぶんもう好きも嫌いもなく、無関心となっていきます。
関わることそのものが怖くなってくるので、距離を置きます。

だからどうぞ、アリのときに誠実に接し合いましょう。
そしてもしナシになってしまったら、節度をもって接しましょう。

これが私のトリセツです。

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大森和枝(美術家KAZU)
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