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コミュニズムは訂正可能性のほうへーアルテミー・マグーン「コミュニズムにおける否定性」を読んでみた

ロシア現代思想関連論文を読んでいます。
前回は「プーチンの脳」と言われているナショナリスト、アレクサンドル・ドゥーギンの論文を読みました。↓

今回はコミュニスト、アルテミー・マグーンの「コミュニズムにおける否定性ー疎外のパラドクス」(八木君人訳 雑誌『ゲンロン6』 2017年 に収録)を読みたいと思います。

コミュニズムとは

「コミュニズム」が現在の意味で使われるようになったのは、フランス革命期。当時の主流派であるジャコバン派のスローガンは自由、平等、友愛。「コミュニズム」はこのオルタナティブとして位置付けられます。そして「コミュニズム」のスローガンのひとつは私的所有権のない社会。

私的所有権は不平等の源泉(本来誰のものでもない土地が、いつの間にか誰かの土地になっているのがその例のひとつ)だと思うので、オルタナティブが出てくるのは当然だと思います。

「コミュニズム」は、一般的傾向とは違って天上ではなく、地中を目指します。イデアではなく物を目指す。そういえば、マルクスは唯物論者でした。そしてヘルダーリンに言わせれば、天上ではなく地中を目指すことこそが革命らしい。

この構図で『天空の城ラピュタ』を思い出しましたよ。ムスカは天上を目指す。鉱山(地中)で働くパズーはコミュニストであり革命者。そしてシータは両者を媒介(天から降ってくる)する。ドーラはさしづめ媒介者シータを運ぶメディアでしょうか。

話がそれました。
「コミュニズム」とは個人主義、ルソー的一般意志、ナショナリズムのオルタナティブあるいは革命のこと。そして革命のゴールは社会の構造を溶解させることらしい。

「コミュニズム」が約束する全体性/共有性は、肯定的に目標を目指して行動することで生まれるというよりは(その場合は統一された集団的主体で事足りる)、むしろ、宙吊りにされて、溶解したマルチチュードの否定的な統一体として生じるのであり、そのマルチチュードはいわば「デフォルトとして」、それぞれの間で互いに共ー調co-ordinatingする。

126P

コミュニズムは否定神学的なのです。なので目標にたどりつくことは永遠にないと思われます。だからこれを抽象的に考えてもしょうがないから、溶解したマルチチュードの統一体が共調した結果、具体的にどうなるのかが重要です。

1980年代のフランスにおいて、ポスト形而上学の文脈で、ふたつのコミュニズムに関する考え方が出てきます。さらにイタリアでも特筆すべきコミュニズムが生まれます。つまり合計三種類のコミュニズムがあります。

1)ジャン=リュック・ナンシー的
超越的で脱自的
(ハイデガー的?存在論的?ムスカとパズーの短絡?)

2)アラン・バディウ的
現存のカテゴリーからの逃走
出来事は存在と非在の間の中間状態にある
(ドゥルーズ・中期デリダ的?郵便的?シータ?)

3)パオロ・ヴィルノ的
資本主義内部に私的所有を否定する技術がある
(前期デリダ的?否定神学批判的?バルス?)

この整理は東浩紀の『存在論的、郵便的』の整理とほぼ同じではないかと思います。そして私が読んだところでは、ナショナリストのドゥーギンも同様の整理をしているのではないかと思います。みな参照しているものが重なっているので、必然的に似てくるのではないでしょうか。
この三つの中では、私は2)アラン・バディウ的コミュニズムに最も可能性を感じますが、マグーンはどう考えるでしょうか。

コミュニズムは訂正可能性のほうへ

ソ連や他の社会主義国にとっては、コミュニズムは、ユートピアか未来に実現されるプロジェクトだった。しかしソ連崩壊後には過去のものになってしまいました。そしてもうひとつの考え方があります。それはヴィルノの考え方で、コミュニズムは資本主義に内在しているものの、資本主義のロジックに抑圧されているというものです。

(コミュニズムの力は)直接的な連帯のもつ潜勢力と、社会体を崩壊させ溶解する力、極度に孤独な状態にある人間をお互いに剥き出しにする力の上に打ち立てられる。この力こそがコミュニズムを現状への脅威にして希望にするのだ。

140P

連帯してできあがるのはマルチチュードの統一体だと思いますが、これと個人主義、ルソー的一般意志との違いがはっきりしません。しかし、まぁとにかく、その統一体で社会を崩壊・溶解させる。

コミュニストは「亡霊」のままとどまっており、決してそこに存在することなくして通りすぎていくのである。このことは、否定性という現象にとってはまったく自然なことである。否定性はつねに不安定に漂っているものであるが、それと同時に、抑圧されることを通して回帰する。権威主義国家という環境でかたちづくられた集団的な孤独という文化は、それを反転することで、ブルジョワ的社会性のオルタナティブを考え出すのに使えるだろう。

140-141P

この「亡霊」はデリダの幽霊にそっくりです。無意識のネットワークを漂っている、抑圧された可能態は、可能態なので現前することはありません。可能態とは存在と非在の間の中間状態のことであるといえます。でもまれに現実にエラーが起きると、現実に可能態が再来することがあります。この可能態の再来によって現実が訂正されることを、東浩紀は「訂正可能性」とよんだのでした。コミュニズムは、ナショナリズムや資本主義にエラーが生じたときに再来できるよう、無意識ネットワークを漂い続けている。

コミュニズムはそもそも否定神学的でした。したがってコミュニズムの主体はニュートラルで曖昧なものになります。いわば、わかりあえないということをわかりあって連帯するようなものです。このような状態では、連帯理由はなんでも良い(まともな連帯理由などない)ので紐帯の独裁的な破壊やファシストのような過剰な同一化が生まれるリスクがあります。

コミュニズムの政治機構は、何らかのかたちでそれ自体「否定的」であるべきであり、同一性を破壊すると同時に分類不可能な新たなる存在をつくりだすべきである。

141P

否定的であると同時に分類不可能な新たなる主体をつくるのだと。前半は否定神学ですが、後半はそこからの脱出のことを言っています。「亡霊」であるコミュニストが回帰して新しい主体に訂正する。2)アラン・バディウ的コミュニズムとも整合していると思います。

西側の民主主義の擁護者として影響力のあるジャック・ランシエールによれば、民主制が始まるのは、現状と闘うために新たな未承認の主体が現れるときである。われわれがコミュニズムでもって意味するものは、こうした左翼的な民主制の理解が含意するのと同じことであるが、よりラディカルで、より公式的でない異説、すなわち、絶え間なく自己超克する体制のことである。

141-142P

やはり訂正可能性に向かっていると言えそうです。
しかし東との違いもあります。東は家族(たとえば養子縁組などのような血縁を必須としない家族)という訂正可能な共同体が必要だといいます。でも家族をつくるとおそらく私的所有権も自動的に生じます。だからマグーンは家族をつくるという発想にはならず、マルチチュードの統一体をつくると言います。果たしてマルチチュードの統一体は持続可能なのかという疑問はありますが、私的所有権の無い社会が目的なのであれば、やむなしか。

それにしても、日本とロシアの思想がこんなに似ているとはまったく想像していませんでした。どちらも西欧ポストモダニズム、ポストポストモダニズムを踏まえて議論をつくっているので、その意味では似るのも必然なのかもしれません。

残る勢力はリベラリズム。次回はリベラリストのボリス・グロイスを読みたいと思います。

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