「家族介護者の気持ち」⑤「通い介護」
「通い介護」という言葉と行為
今回は、「家族介護者の気持ち」⑤通い介護」を考えていきたいと思いますが、おそらく、「通い介護」という言葉自体も、聞いたことがない方が多数なのではないでしょうか。
「通い介護」というのは、10年ほど前から、私自身が提唱している「考え方」で、在宅介護から、要介護者を病院や施設に預けることになりながら、そこに頻繁に「通い続ける」家族介護者の行為を「通い介護」と名付けました。
それは、発見したというのではなく、すでに存在している行為に言葉をつける、ということだと考えています。
在宅でない以上、それは「介護といえないのではないか」といった反論は容易に予想もできましたが、じつは、以前から、施設や病院に要介護者を預けたにも関わらず、そこに頻繁に通い続ける介護者は、報告もされていましたし、一部で注目もされていたようです。
そして、場合によっては、在宅の時よりも疲労感を募らせていたり、体調を崩す、といった介護者の例もあったようでした。
こうしたことは、おそらく、施設の現場で働かれている介護のプロの方々のほうが、ご存知なのではないか、とも思っています。
「遠距離介護」と「通い介護」
現在は、“遠距離介護”という言葉さえ一般的に使われるようになっています。
「遠距離介護」は、要介護者である家族とは、遠い別の住居に住みながらも、そこに通うことによって、介護を続けているという状態でもあり、それがそれほど抵抗なく、受けいれられているのであれば、頻繁に、場合によっては週に何度も施設や病院に通って、そばにいる家族介護者の行為は「介護」と名付けたほうがふさわしいのではないか、とも思えます。
また、当事者の声を調査した上での、こうした報告もあります。
家族介護者から往々にして聞こえるのは、高齢者が入所・入院をしても、あるいは亡くなったとしても『介護は終らない』という感想である。 (『在宅介護における高齢者と家族』より)
その切実とも言える「通う」という行為は、「介護」と名付けたほうが理解に届きやすい場合もあるのではないでしょうか。見舞いというよりは「通い介護」と名付けていいと、思います。
この行為に関しては、こうした分析をする研究者も存在しています。
老人ホームや老人病院に夫を預けたものの、相手の状態に対するマネジメント役割の責任を感じ、訪問という行為でその役割の遂行を続けていると言える。
それは、「介護」という行為が、食事、排泄、入浴などの具体的な行為だけでなく、その準備をするといったことや、何より、要介護者の精神的な部分を支えるのも「介護」である、ということを指しているようにも思います。
その「行為」をあらわす言葉があれば、その「行為」について考えやすくなることは多いと思います。
もちろん、頻繁に丁寧に病院や施設に通い続けていても、当事者は、ただ見舞いをしているだけで介護とは言って欲しくない、という場合もあると思われます。
そうした場合は、無理にラベリングをする必要はないのですが、「通い介護」という言葉を定義することによって、これからの介護者支援もより適切に考えられ、また支援が有効になる可能性も高まるのではとも、思っています。
医療機関への不信
こうしたことを考えるようになったのは、やはり個人的な経験も大きいのだと思います。ここから「最初の病院での出来事」「怒りと不安と恐怖」「うしろめたさや自責の念」「残る恐怖」「黒い雲」までは、主に、私自身の経験を素材として、「通い介護」について、考えていきたいと思います。
これらは、「介護離職して、介護をしながら、臨床心理士になった理由」と重なる部分も多いので、それらを読んでいただいた方には、申し訳ないのですが、私の体験部分は、とばしていただいても大丈夫だと思います。ただ、一般的なことや、分析的な部分は、(主に「」以外のところです)読んでいただいた方が理解は深まるかと思います。
今回の、「家族介護者の気持ち」の素材としての文章は、私自身が、2010年に書いた記録です。2007年に母は亡くしましたが、義母の介護は続いて、昼夜逆転の生活のままでした。資格をとろうとして、学校に通い出した頃ですが、基本的には、家族介護者の感覚の時です。ここからは、自分自身が家族介護者として記録していた文章を材料として、「通い介護」を考えていきたいと思います。
今回、振り返り、改めて考えた時に気がついたのは、「通い介護」に至るまでに、たとえば、その「通い介護」に該当する病院にたどり着く前に、他の病院での不信感を募らせる出来事が、実はかなり影響しているのではないか、ということでした。
最初の病院での出来事
介護の始まりのことです。
「1999年になって、急に母親が病気になった。父がその3年前に亡くなり、一人暮らしをしていたが、元気そうだったし、実家へ行くようにはしていたのだが、息苦しいと何度か言い、そのたびに病院へ連れて行き、異常ないです。カゼでしょう、と何度も言われた後、夜中の3時に母から、電話がかかってきた。
今、雪ふってる?
ふってないよ。
ああ、そう、それなら安心した。
まるで昼間と同じ口調での電話だった。妻と二人で出かける準備をしていたら、それから2時間後にまた電話があった。もう何を言っているか分からなかった」。
その時は、何しろこわかったし、どうしたらいいか分からなかったので、すぐに実家に行って、何を話しているか分からない母親を前にして、とにかく、いつも通っている内科のある病院は、総合病院で、そこには「神経科」もあったので、連れて行って、入院することになりました。
ただ、なぜか、「神経科」にいるはずの精神科医への診察を、内科医に何度も、お願いをしていたのに、聞き入れられず、2週間ほどの間に母親は、安静にしている間に、どうしてだか回復して退院をしました。
その過程に関しての説明を求めましたが、「1人暮らしは避けてください」と、こちらの状況を聞くこともなく、ただ繰り返すだけでした。
すでに、家族としては、病院に関して、不信感が高まっていました。
その半年後の夏に、母親はまた症状が悪くなり、その病院に再入院し、「痴呆でしょう」と言われ続けて、精神科の病院に転院しました。精神科の病院で、血液検査を行ったら、血中アンモニア濃度が400を超えているといわれ、それを下げたら、嘘のように意志の疎通ができるように戻りました。
家族としての病院への不信感は、ピークに近い状態でした。
それでも、母親が話せるようになると、また元の病院に行きたがりました。母親が、その病院を信頼していました。父が勤め続けて、母もそこで働いていた企業の名前がついた病院だったので、家族としては、転院をしたかったのですが、母親は信仰に近い信頼があったように見えていたので、かえることができませんでした。
ちょっと絶望しつつも、通ったら、そこから、さらに、1年後には、また症状が悪くなります。
また、母が行きたがっていた病院に入院中に、家族は、夜中に、昼間に、アトランダムに電話で呼び出され、そのうちに不眠不休で、母を個室でみるようになり、私は心臓発作を起こしたのですが、そのことを労られることもありませんでした。
まだ不整脈が治っていない私に向かって「今日、誰か、みてくれる人はいませんか?」と言い続ける看護婦長には、不信感どころか、殺意がわきました。
それから1ヶ月くらい、家族がみられないのなら、プロの家政婦を24時間体制でつけることを、暗に強制され、もちろん費用は、こちら持ちでした。次の病院のベッドが空くのを待つしかありませんでした。
そして、新しく病院にうつれました。
そこは、認知症専門の高齢者向けの病院でした。
ここまで改めて書いても、どこの病院に行くかで、命に関わることがわかります。もしも、今、介護に関係がなくても、病院なり、施設なりを見学しておくのも大事かもしれません。そして、要介護者になるかもしれないご家族が信頼する医療機関があるとしても、できたら、もう一ヶ所くらいは、そのご家族が「行ってもいい」と思えるくらいの医療機関を探しておいたほうがいいと思います。
私にとっても、こうした非常事態が起こるまで、最初の医療機関が決して「いい病院ではない」ということが、分かりませんでした。
他の医療機関に通ったり、実際に他の病院で診察や治療を受けることで、最初の医療機関がダメだったことが、初めて、本当の意味で分かりました。
怒りと不安と恐怖
いきなりネガティブな感情ばかりを項目に並べて、すみませんが、こうした感情も、環境によって、蓄積させられたものでもあるようでした。
私は、母に転院してもらい、そこに、そんなネガティブな感情と共に、毎日のように通い続けました。
それは、「通い介護」だったと思います。
「(病院を移る前に)また母は前触れもなく正気に戻った。もうよく分からない。ただ怖くなった。次の病院に移ることになり、そこへ行ったら、痴呆ではないかもしれない、と言われ、ただ移ってから少したって、また悪くなり、個室では悪くなりますよ、とそこしか空いてなかったのに言われた。
これ以上、悪くなってほしくない、という恐怖心と、もう自分自身が心臓をおかしくしたから、何も出来ず、仕事をやめ、ただ病院に通い、家に帰ってきてからは、妻の母の介護を手伝った。
めまいを起こしながら、夜はよく眠れず、時々、自分が発作を起こした時の看護婦長の冷たい目つきと強引な言葉を思い出すと、背骨の中から怒りがわきでてくるようで、さらに眠れなくなった」
そうした中でも、とにかく病院へ通ったのは、行ったからといって、母親が、よくなるわけでもないですが、行かないと悪くなって、また二度と意志の疎通ができなくなったら、と思うと、恐くて行っていました。
行かないと不安がふくらみ、病院に行き、それほど悪くなっていないと、不安が少なくなる、の繰り返しでした。
今も、そうした毎日を過ごしている方もいらっしゃると思います。
もしかしたら、その施設や病院に行き着くまでに、いろいろと大変なことがあったかもしれません。そうであれば、その入所や入院の際に、家族介護者の不信や恐怖や不安をどれだけ減少させられるか、が大事になってくるようにも思います。
そうした時に、難しいのは承知していますが、病院側に、具体的な要望だけでなく、家族介護者の気持ちに焦点をあてた話を聞ける体制と、話を聞く専門のスタッフがいれば、ずいぶんと違うのではないか、と思います。
後ろめたさや自責の念
入院、もしくは入所させたあとは、病院や施設が看てくれているから、特に家族が通う必要はないのは共通していますが、だけど、毎日のように通わずにいられないという家族介護者も一定数存在します。
それは、現場の介護のプロの方のほうが、ご存じのことかもしれませんが、さきほどの私のような「医療機関への不信感」だけではなく、家族介護者には、うしろめたさや、後悔や、自責の念が強い場合も多く、そうした感情は、特に入院、もしくは入所させた直後は強い、という印象があります。
外側から見れば、せっかく施設や病院に預けたのだから、「少しゆっくりすれば」もしくは、「預けて一安心でしょう」などと声をかけたくなるのも自然なのかもしれませんが、特に「通い介護」をしている家族介護者は、自責感などで、切迫感が強い場合も多く、そうした周囲の対応によって、より負担感が増すことさえありえます。
「通い介護」を続けている家族介護者の気持ちは、自責感や後悔や様々な思いもあり、在宅介護に比べて、負担感が大幅に減る、というわけにいかないこともあります。やはり、要介護者が生きている限り、介護は終らないという印象もあり、その終わらない緊張感も、「通い介護」の独特さかもしれない、と思います。
さらに、難しいと思えるのは、たとえば、一般的にはほめ言葉さえも、負担感につながることがあります。たとえば、「通い介護」を続けている家族介護者に対して、心から「親孝行ね」といった言葉さえも、自責の念につながることさえあります。
「通い介護」を続けている家族介護者は、在宅介護を終えたとしても、今も、介護の真っ最中にいる、ということだと思います。そうしたことだけでも、理解しようとすれば、「通い介護」継続中の、家族介護者の負担感が減る可能性があります。
だからこそ、「通い介護」を続けている家族介護者に対しても、在宅中ほどの頻度は必要ないのかもしれませんが、特に環境が変化した直後や、適切なタイミングでの心理的支援は必要ではないかと、私自身は、改めて思います。
残る恐怖
再び、私自身の話に戻ります。
「通い介護」を続けている時のことです。
「そうして2年くらいがたった時、母が入院している病院の看護婦長から遠慮がちに声をかけられ、減額措置というのがあるのを知った。それで随分と気が楽になった。
以前の病院ではミスもあったし、自分が病気に追い込まれたり、その日にも責められたりしたせいか、病院関係者に時々、強い怒りを憶えることさえあった。
だけど、看護婦長は、タイミングを見ていたようだった。そうやって、患者の家族のことまで考えてくれる気持ちがありがたかった。
それまで自分は道に死んだように倒れていた。そこから立ち上がって歩く姿が初めてイメージできた。」
その頃まで、前の病院の時に不信感や怒りや恐怖があったせいか、白衣を着ている人間とあまり話したくありませんでした。
ただ、2年たって、この病院は、母親を大事にしてくれると思えるようになっていましたし、何度か症状が悪くなって、よくなっての波がありましたが、この頃は、母親が、少し落ち着き始めた時期でもあったので、そこから先は、病院への信頼感は増大していきました。
ただ、病院に預けてしまった、という自責の念は完全になくなることはなく、また、ここまで「通い介護」を続けてしまうと、これをやめたら、また意志の疎通ができなくなるのではないか、という恐怖心は薄くなっても、ずっと残り続けたように思います。
そのあとは、母親はさらに内臓に病気を持つようになり、それで、また「通い介護」の頻度はあがってしまいましたが、それはちょっと違う要素かもしれません。
ただ、どこかで、要介護者が悪くなってしまうのではないか、といった薄い恐怖心がもとになっているのは、「通い介護」の家族介護者には、共通していることのように思います。
ですので、何年かたっても、慣れてはくると思いますが、「通い介護」をする家族介護者には、おそらく余裕はあまりありません。通うことによって、不安を減らし、在宅時に不安がふくらみ、また「通い介護」を続ける、という状態ですので、かなり精神的な疲れは蓄積するのでは、と思います。
ただ、病院に通っているだけなのに、思った以上の疲労感があるように感じていますし、このことも、外側からは、あまり理解されないことのようにも思います。
黒い雲
私自身は、母親を「通い介護」でみつづけて、7年がたち、母を病院で亡くしました。
「しばらく病院へ通わなきゃ、と思う気持ちが抜けなかった。
そのうちに、自分の頭の左側の少し上にずっとあった細い針金がからまったような雲が消えているのに気がついた。それは母の介護に関わった8年間の間にずっとあったような、気がかりとか心配とか、様々なものが固まって、ずっとあったようなものだった。
そういえば、ずっと視界が微妙に暗いような気がしていた。母が死んで、後悔ばかりが残っている気はしたが、死んだから、もう何かを心配しなくてもよくなった。そのため、おそらくその細い針金がからまったような黒い雲が、なくなったようだった」。
おそらく、この黒い雲は、「通い介護」へ駆り立てていた不安が形になったものであるのでしょうし、それは、今「通い介護」を続けている方にも、形は違ったとしても、共通して、存在していることのようにも思います。
毎日のように病院へ通っていても、うしろめたさが完全に抜けることはありません。何年も通い続け、それは「通い介護」としか言いようのない状態であっても、今は、まだ広くは「介護」という言葉すら使えない状況です。
自分がやっていることは、何なのだろう。
そんな思いまでが、負担感になり得るのが、「通い介護」の複雑さであるかもしれません。
通う介護者、通わない介護者
もし、介護施設や、特に特養などで働かれている方がいらっしゃったら、気がついていられる方もいるのでは、と思うのですが、家族介護者は、かなり頻繁に通われる方と、ほぼまったく来ない方の両極に分かれるような印象があります。
それぞれの事情があり、どちらが良い悪いではないのですが、私の個人的な実感では、そんな印象があります。
それこそ、狭い範囲の知識ですし、もっと広い研究や調査も必要と思いますが、今は、「通い介護」が存在する、ということを広く理解してもらい、その上で、そうした家族介護者への心理的支援を適切にすることによって、介護者の心理的な健康も少しでも改善する、といったことが進められれば、と思いながら、今回の記事を書きました。
なお、「通い介護」という言葉ですが、少し前まで、私は、「通所・通院介護」という言葉を使っていました。ある医師の方から、「通所介護」は、デイサービスとまぎらわしいのでは、という指摘を、いただきました。とても、ありがたいご指摘でした。それ以降は「通い介護」という言葉を使っています。Y医師には、この場を借りて、届くかどうかは分かりませんが、改めて御礼を申し上げます。ありがとうございました。
今回は、以上です。
(※2020年の時の記事の再投稿です)。
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