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何者にもならない私たちへ

私はどういう人でありたいか、将来何をしているのか。大切な人たちとは何十年後も一緒にいられるとは限らない。

来年の予定なんてほとんど空っぽだ。
何を作っているか、どこで暮らしているのかも分からない。
でも、少なからずやりたいことはあって、そのために自分がどう動いたらいいかとか考えることも結構ある。実際少しずつ道に迷いながらも歩みを進めている。

1年後、3年後、5年後、10年後…
わたしはどうなっていたいか、何を成し遂げていたいか。
最近また考えていた。
私は大人になってしまった。


学校から身を引いてリハビリみたいな制作ばかりしてる頃、子供と関わるアルバイトをはじめた。
その頃の私は今よりもっと生きるのに精一杯で、毎朝起きることも何かを作ることもものすごく体力を消耗した。

もちろんバイトに行くのも必死だった。
でも行って子供たちとふれあっている間になぜか将来の漠然とした不安感は無くなっていた。

子供は今を見ている。今しか見えてない。
今これがやりたい。今これはしたくない。
明日やろう?嫌だ!今がいい!
ずっとこんな調子だから、気づいたら私も今しか見なくなっていった。

今私これ食べたい。今これ作りたい!
それでリハビリ制作も捗り、しばらく距離を置いていた服をつくることもできるようになった。


昔から服は好きだった。
幼い頃から祖母が服を仕立ててくれ、それが嬉しくて気づいたらファッションデザイナーになりたいと思っていた。

でも、服よりファッションの方が好きだ。
服単体を見て、この素材使いが素晴らしいだとかシルエットが綺麗とか、そういうことよりも、「ある装い」が周りに影響を与えていく現象が好き。ファッションから派生する言葉が好き。その日着ている服の背景を、なぜそんな服装をしているのかを知るのが好き。そういうコミュニケーションをとっている人たちを見るとすごく幸せだ。

そしてつくるのはもっと好き。
でも服をつくること自体はもちろん好きだけど、それよりも伝えたいこと、表現したい何かがあって、それを表現する時に服も手段のひとつであるという考え方で制作をしていることがほとんどかもしれない。


最近、多分久しぶりに服を作っている。
服とかニットとか、そういうものだけで食べていきたいと思うようになっていた。
私は服飾の学校とか行ったことかないし、ちゃんとした基礎なんて小6の時に初めて作ったワンピースを通してしか知らないようなものだ。
ずっと基礎を避けてきた。というより自然とそうなっていた。今でもそうだけど、「服を作っている」とか「仕立てている」みたいな感覚は全くなくて、「立体表現としての衣服」という感じ。それでも服は作れてしまうから面白くって、着れるから最高だった。何この面白い現象って感じ。

だから服を作っているのに基礎をほぼ知らないまま21歳になっていた。
ファッションだけで食べていきたい。
最近そう思うようになったから服の基礎を自分で勉強していくことにした。


そして服だけで食べていくにはブランディングみたいなことも必要になってくると思った。

ブランディング:顧客に独自のスタイル・イメージなどを伝えること。他者と差別化を図り、ブランドとしての価値を高めていくこと。

なんだかすごく窮屈に感じた。
ブランドとしての価値、よりも私は私としての価値を大切にしたい。そもそも価値ってなんだろうか。私が惚れたのは、お金では買えない「装いを介して生まれるコミュニケーション」だったり、「その服を着ている背景」だったり。そして何よりもつくることそのものに魅了されてきた。


私にとって、服を作ることも絵を描くことも、編み物も文章も何一つ変わらない。
表現したい衝動に駆られて、その表現したいことを実現するためにあらゆる手段を用いて制作をする。私の人生全てで表現活動をしていく。

将来何者かになっていないとと焦っていた。
ファッションデザイナーという枠組みの中で生きることを最近考えすぎていた。

バイト行ったら子供たちがいて、誰も人の話なんか聞かずに自分のやりたいことをずっとしていた。自分が何者であるかなんて気にしない。私たちも気にする必要がない。


私はファッションデザイナーにもなりたいし文章も絵も描いていたい。古本屋さんもしてみたいしたくさん編みたいものもある。学校行けずに苦しんでいる人たちを支えたいし、自殺者も減らしたい。子供たちを守っていきたい。

何をしている方ですか?と聞かれて答えに困ることは多い。将来も、自分が何者なのか一言で答えなくてもいいのかもしない。


私は誰かの生き方そのものに救われたことが何度もある。だから私もそうなれたらいいな。

私は人生全てをつかって、表現活動をしていく。

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