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(17) アイデンティティー

禅堂に向かう廊下で、師から注意を受けた修行僧がいたそうだ。

「これこれ、何を持っておるんじゃ」
「いや、毎日毎日の瞑想の最中に邪魔されるんです。その邪魔が何者なのかつきとめようと必死になりました。その正体がやっと分かりまして、蜘蛛だったんです。今日はその蜘蛛を退治しようと思い、短刀を持って参りました」
「愚か者!何を勘違いしておるんじゃ」
「師!お許し下さい。必ず退治して、明日からは命懸けの修行をさせていただきます」
「何?愚かであることを知るのもよかろう。好きにせよ」

師は弟子が短刀を携帯することを許し、その廊下で待った。何分かの後、その修行僧は自身のわき腹を刺し、他の修行僧たちに抱えられ運ばれて来た。傷は幸い命に係わる程ではなかった。
「師、私は愚かでした。邪魔したのはこの私自身でした」
ある高僧の講話の中でお聞きした話の一部である。

私たちは日々の生活の中で悩み、不安がり、苦しみ、望み、穏やかに生きられないものである。「私はどこから来たのか?」勘違いして生きない為に、ここから考え直してみたいものである。

「私はどこから来たのか?」
身元調査をする訳ではない。
私は私自身をどう思って来たのか?
居場所はあったのか?
何を信じて来たのか?
何が嬉しかったのか?
くり返しやることはどんなことか?
一番悲しかったことは、いつ、どこで?
何に不安を感じているのか?
不安な時、どんな風になるのか?
人に責任を被せるか?
信じる人はいるのか?
あなたを信じる人はいたか?
あなたは自分が好きか?
など・・・
おおよそこんなことを考えてみて欲しいと言っている訳である。「私はこんな行程で、こんなことを考えて来ました」・・・これが「私はどこから来たのか?」と言うことである。今のあなたを知る為に、このことが大切になってくる。

毎日命懸けの修行の中で瞑想に集中することが出来なかったその僧は、何者かに悪さをされ、邪魔されていると思い込んだ。来る日も来る日もそれが何者か見出そうと、脇道に逸れた。正体が見えないまま、それを蜘蛛に置き換えた。本来から逸れた瞑想中、幻想の中で憎き蜘蛛を刺した。それが己自身であることを知らずに・・・。残念なことではあるが、私たちも毎日こんな有り様であると思う。”こんな私である”を認めたくないのである。だから知らないふりをして、何かが起きればその要因を自分以外に求めてしまう。気持ちは本当によく分かる。私自身もほとんど、そうしたいからよく分かる。しかし、いつかあの修行僧の様に大怪我をしてしまうに違いない。知性中心のハイテク産業の暴走ともいえるこのストレス社会、自然破壊に始まり、生きることの意味の喪失が私たちの現実である。

かつて画家のゴーギャンはタヒチで、”我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか”と言うテーマの油彩画を、一年がかりで完成させた。ゴーギャンでなくとも、誰にとっても一番の課題であるはずだ。”自分証明”であり、”アイデンティティー”なのだ。今時IDと言えば、銀行の口座番号だったり、国民識別番号である。確かに私自身を証明するものであることは確かだ。本当に大切であるのは、私につけられた数字の番号ではないはずである。

名脇役だった田中邦衛さんが逝った。あの”北の国から”の五郎さんである。彼は晩年主役を張り、”北の国から”が代表作となったが、それまでは脇役に徹した。そんな邦衛さんの言葉に、
「脇役とは、主役を食ってしまってはならない。食ってしまうとしたら、役者として未熟だからだ」
胸に刺さる言葉である。これが邦衛さんのアイデンティティーだった。私はそんな役者です、と胸を張る。

確かに生きるという階段の一段目でしかないのだが、「私はどこから来たのか?」を、自身の中だけで大丈夫だし、人に話すべきことでもないから、秘かに考えて欲しいのである。二段目の階段は、邦衛さんの言う「私は脇役の役者です」と、考えてみて欲しい。そして、だから「こう生きて行く」が三段目となる。もう死語になってしまった”アイデンティティー”であるが、これが私たちの”背骨”であるのだ。


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