(131) 携帯電話 - SNS
携帯電話がなくてはならないものになった。
時代は変わったし、また、携帯電話が時代を大きく変えたと言える。
日頃電車に乗ることがない。
そんな私だが、先日愛車の車検の為車を届けに行った帰り、久しぶりに電車に乗ることになった。座席には座らず、ドア近くに吊革も持たず立つことにしている。大した意味はない。昼間であるからなのか、利用者はまばらで全員座っていた。それがまた・・・全員スマホとにらめっこしている。これはちょっと面白い。照れ隠しなのか、じっと正面の人を見るのが躊躇われるのか、理由はそれぞれだろうが、みんな同じポーズなのが愉快に映った。吊革も持たず立っている私と同じで、そのポーズには大した意味などないだろうと思うのだが、みんな同じ「にらめっこ」を選んでいるのが愉快だった。
大きなお世話だろうが、”個性”がないね、と思う。座ったついでに背筋を伸ばし、手は膝の上、ゆっくり細く息を吐き、半眼で「瞑想」のひとつでもやってみたらどうなの?どうせ私たちは「迷走」してるのだから。扇子のひとつも持ち歩き、講談師の先生方の張扇よろしく、講談のひとつでも読んでみたらどうなの?神田伯山先生が喜ぶよ。そんなのYoutubeやXに投稿でもしてみたらウケるのに・・・。
そんな冗談を言いたくなるのは、その携帯電話との接し方を常々心配しているからなのだ。”SNS”のことだ。
人と直接顔を合わすことなく、どんな時間であったとしても、こちらの都合で”発信”できる。考えてもみればこんな便利なものはない。直接顔を合わすことに躊躇いがあったとしても、その”発信”は容易にできる。
しかし、それによる”不安”があるのも事実だ。そんな容易さが、”依存”を生む。携帯電話を失くそうものなら個人情報の点で自身が丸裸にされてしまうに等しいこと、それに全て頼り切っているのだから、もう生きていけないぐらいのことになってしまっている。不注意から水没させても同じことが言える。ひとつのものに、これ程まで”依存”しきるのは危険でしかない。その上、送ったメッセージが既読にならないことに一喜一憂し、既読になっても返信がないことで悲しむ。返信があってもたった一行であることに物足りなさを感じ、私の価値はその程度か?と、自身の評価だと勘違いをしてしまう。みんな誰しも「淋しい」のだ。いつも人と繋がっていたいと願っている。しかし、直接人と繋がるのは骨が折れる。そんな中、”SNS”はそれらを満たしてくれる絶好のツールであるのであろう。
「既読」「返信」・・・コールした”私”にどれほどのレスポンスが来るのか、また、来るまでの時間も大いに問題なのだろう。それは真に”承認欲求”をそのツールで満たしたいということだ。人にはそれぞれ都合がある。既読と表示されたとしても、すぐに返信出来ない事も多々ある。時間がなくてたった一行だけしか返信出来ない事だってあるのだ。そうであるのだから、「既読」「返信」に自身が大切にされているのか?を重ね合わせるべきではないのだ。
そのツールがあることによって、生の”人間関係”に変化が生じている。人と人との直接の関係性が「軽く」扱われてしまっているのだ。大切な直接顔を合わせてのやり取りが「重さ」を失っているのだ。言葉を選んで、相手の様子を「観察」して、「共感」したり意見を交わしたりすることが大いに減った。あとからLINEで訂正したり、謝罪したりが容易にできるのだから、人に直面した「時間」が軽く扱われている。そのツールでのやり取りは、顔を合わせたりしていないのだから、言い過ぎた言葉になるだろうし、あくまでも文字なのだから、「心」が伝わり難い。「生」でないから「表情」というものが見えないのだ。
「時代をわかっていない年寄りなのね」
という声が聞こえて来そうである。そんなこともあって、重要なテーマだと思うのだがnoteに書くことが躊躇われた。
「ノーベル賞」というものがある。
あれはノーベル博士が自身が発明したダイナマイトがぜひとも平和利用されて欲しい一心での研究であったと思う。しかし、その破壊力のあるダイナマイトが悪用されたことを悲しんだに違いないのだ。だから博士の遺言から生まれた「ノーベル賞」は、その贖罪の気持ちからだろうと思われる。科学者は人類にとって有効に利用して欲しいという願いを込めて日々研究に励んでいる。核分裂などは、あの莫大なエネルギーを人類に必要な利用の仕方を願っての研究であったはずである。しかし、「哲学」を持たない一部の指導者(きっとパラノイアに違いない)によって兵器に変わった。文明の利器である携帯電話も、生まれたばかりではあるが、先の例にもあるように、今後どんな形で人々を苦しめることになるか、利用する私たち自身の「扱い方」によるのだと思う。
便利なものは生活に取り入れていいのだ。
それを享受して、今まで以上に私たちが嬉しかったらそれでいい。しかし、そのツールの為に私たちが負を背負うことが、今は見えないが起き始めている。少なくとも「自分」にとって、そのツールが”安気”でいられるように使いこなして欲しいものだ。