(57)玖未 ー それから
毎年のことであったが、サツマイモ十キロを提げていくのは相当指に堪えた。今年も玖未は、坂を上がる途中で一息入れた。寺恒例の焼き芋大会は、十一月の最後の日曜日と決まっていた。誰が決めた訳でもなかったが、玖未が寺に下宿していた頃、和尚が落ち葉で焚き火しているところへ、玖未がサツマイモを入れたことに始まっている。山宝寺は、坂を上った所にあり、不便であるためか玖未が下宿を出てからは、希望者がなかったらしい。ところが、今年は新人が下宿しているらしく、焼き芋大会もこれでやっと三人になると、玖未にとっては楽しみであった。
この地を離れて六年になる玖未であったが、古都の名の通り、伝統的とも言える落ち着いた雰囲気の鎌倉が好きであった。古いものと新しいものが混在していても、それらは妙に調和がとれていて、一定の線以上出ないように両者が主張を差し控えているところを素敵だと感じていた。山宝寺は、そんな鎌倉を一望できる小高い山の中腹にあった。夏は若者達で賑わしい湘南の海も、それが嘘のように静まり返っていて、数艘のクルーザーとヨットが沖に浮かんでいる位であった。玖未は、山宝寺への坂の途中から眺める海がとても好きだった。特に早春と晩秋の静かな海に風が通るのを感じる瞬間が特にいいと思っていた。確かに玖未の目には、風が通るのが見えた。海を通る風が、海面に小さなさざ波を作るのであろうか、それを遠くから見ると、海の色が一瞬濃く見えるのである。さっと通る風の一群が、何事もなかったかに通り過ぎながら、海の色に変化だけを残す。山腹からそれを見ていると、静かだった海が一瞬のうちに切れて、また、のっぺりとした京免に戻るように感じるのだった。玖未は、ゾクゾクしながらよく海を眺めたものだったが、今日はその風もなく穏やかな海は、少々玖未をがっかりさせた。
「こんにちは。和尚さーん。・・・あれ?」
どうしたことかと、玖未は不思議に思った。昨年までなら和尚は、玖未が到着する頃を見計らって、日頃したこともない庭掃除をしながら玖未を待っていてくれていたのだが、今日はその姿がなかった。本堂脇の和尚の住居である遊庵を覗いてみようとする玖未に、
「あっ、こんにちは。玖未さんですか?私、離れに下宿しています後輩の陣田丘美と申します。和尚さん、昨晩から熱があって・・・。私がやりますから、ゆっくり休んでくださいと申し上げているのに、これだけはワシの仕事だからとかおっしゃって、庭の落ち葉を集めておられましたから・・・」
「それじゃあ、一晩中看病を?」
「いえ、和尚さんが休めと聞かないものですから・・・」
「お疲れ様、丘美さんが居ていただけたので助かったわ。本当にありがとう。」
「風邪ですか?年一回の大切な日にわざわざ風邪をひくなんて・・・。よっぽど焼き芋大会やりたくないのね、和尚」
そう声を掛ける玖未に、和尚は体を起こし、
「おう、来たか来たか。年一回の憎まれ口をたれに来たか。あのなぁ玖未、今日は決行するぞ。天気もいいし芋を焼くには絶好じゃ。ワシは歯を磨いてくるから、丘美と玖未で準備しとけ。いいか、火はワシが点けるからな。さぁ行け行け」
「言い出したら聞かないから、風邪ぐらいで中止というのもないしね。十キロ提げて来たんだし、そうするか」
玖未の口調も下宿していた頃に戻っていた。
「箱庭ほどの広さじゃが、この庭もな。こうして本堂から海を見るとのう、お釈迦様に尻を向けるわけじゃが、小さな庭の向こうに海が見えて、そりゃあすげえ絶景よ」
和尚は、昔と少しも変わらなかった。庭では大きく盛った落ち葉の山が、真っすぐに白い煙を立てていた。風のない日の落ち葉の焚き火は、一段と風情がある。白い煙が分散することなく、ひとすじすうっと上がるのが何とも言えない雰囲気であった。風のない休みの日などに、玖未はよく落ち葉を集めて焚き火を眺めていたものだった。ひとすじの煙を見つめていると、不思議と心が安らぐのを玖未は知っていた。
三人は開け放った本堂に、お釈迦様に尻を向けて座っていた。
「しかし、変わらないわねぇ、この庭。誰だっけ、この庭設計した人。有名な人なんでしょ?見たらきっと泣くよ、これじゃねぇ・・・。まるで掃除しないもん。和尚、少しは手を入れたら?」
からかうような表情で玖未が言うと、
「玖未、昔からよくそう言ってくれたなぁ。お前の言う通りじゃろうと思う。来て下さる皆さんのためにも、もうちょっと掃除っちゅうもんをせんといかんのう」
和尚も年のせいなのか、それとも風邪をひいていて弱気になっているのか、いつもになく素直にそれを認めた。
「ちょっと和尚。面白くもなんともないね、そういうの好きじゃないよ。てやんでえべらぼうめえーって言ってよね。何か変だよ」
玖未は和尚の様子がいつもと少し違うのに気づいていた。尋ねてみたところで、正直に答えてくれるわけもないと思った。
「四十年、この鎌倉の海を見つめて来たんじゃが、つまらんよのうこの海も・・・。静かすぎてなぁ、何か退屈なんじゃ。こんな海ばっかり見てるもんだから、妙にワシも小さくまとまり過ぎてしまったようじゃ。まぁ、あといくらも生きられまい。旅じゃ、旅にでも出ねばのう」
そんなはずはなかった。和尚はこの鎌倉の海が好きで、いつも本堂から海を眺めていた。
「この海を湘南と読んで欲しくねぇ、てやんでえべらぼうめえー、鎌倉の海と言えー!」
が、口癖だったのにと、玖未は思った。
「何グズグズ言ってんのよ和尚。いつまでも子供じゃないんだし、来年は焼き芋大会じゃなくてさ、バーベキューでもしようよ」
考えてもみれば、来年のことなど話題にすることもなかったのだが、何かに不安を感じていたのだろうか、じっとしていられなくて玖未は続けた。
「和尚、何無口になってんのよ。嫌だなぁ、こんな雰囲気。もしかして、寺を出て行こうなんて考えてるわけ?」
玖未には、和尚がどこか鎌倉を整理し始めているように受け取れた。
都心の部屋に戻っても玖未は、和尚のことが気にかかっていた。丘美さんに和尚のことをよく頼んできたのだが、そういうこととは別の心配があった。
無一物。六年前、下宿を出る玖未に、和尚が手渡してくれた色紙の文字である。
「無一物か・・・。何一つもっていないこと・・・か」
玖未は、和尚が何かを決心していると思った。それはそれでいいのだろうと、玖未は思おうとした。
「さぁ、明日からまた忙しくなるな。来年は大変だわ。さあ、寝よっと。この正月は広島に帰るのやめて、和尚さんちで雑煮でも作るとするか」
玖未は、ふとそう呟いた。