風紺紺
先天性心疾患とHDDをもっています。そのうえ、毒親、毒親戚育ちですが、いろんな人と出会い、価値観、認知を変えつつ、自分育てをゆっくりしています。その記録を残そうと思います。
それから会ってない。 いまはもう十分母につきあったと思い、これから母の日を祝うこともないし、母への恩返しは私が幸せになることと思い、生きていくことにした。 もういいだろうよ。
それでも母の日にはなにかしないと怒られると思ってプレゼントを選び、もっていった。すると泣いて喜んでこう言った。 「私の風紺紺ちゃんがもどってきた」と。そして抱きしめようとしたのだ。 物ではない。あなたのものではない。 私ははじめて「触るな」と大声を出して拒否した。
今日は母の日だ。7年前の母の日から私は母と会わないことを決めた。 度の過ぎた過干渉と私への執着、親戚の悪口、いつも呼び出して、実家に行かないと鬼電がかかる日々に疲れてしまった。 GWにも一緒に過ごさなかったら怒っていて、私の糸がプツンと切れた。
そしてされを聞いて、「いやになるね~」と話を合わせている自分がもっと嫌いだった。 頸動脈掻っ切りたいと思ってた。 突然私の首から血が噴き出したらみんなどうするだろう。だれも自分の言葉のせいだとは思わないだろう。だって父は屑なんだから。そして私はその中で唯一その屑の血をひく人間だ。
私はその汚い血を引いている。人を蔑む人間の血と蔑まれる人間の血で私の体ができていることが怖かった。母が母の周りが父親のことを笑い話のように蔑むとき私の中の血液はコポコポと音を立てながら黒く濁っていくような気がした。汚物が溜まっていく。
お前の父は屑だ。おかしな人間だ。私の嫌なところは全部父親に似ている。ああいやだ。いとこも叔母も祖母にも父親を否定されて、母も率先して父親を蔑んだ。あなたたちはいいですよ、血がつながってないもの。蔑むことですっきりするもんね。
私の生まれながらの価値とはいったいなんなんだろうか。父親に憧れをいだいた時期もあった。父親への羨望と甘えを夫にぶつけたこともあるが、満たされたのだろうか。でもふと気づいたことがある。養育費も一度も払わない父親は屑だと。お前の父は屑だと言われて傷ついたのに自分が父を屑だと知った。
私は自分の中の空虚さとか矛盾とかを見つめる10代において、自分ではなく母親の機嫌、顔色、思考を読み取ろうと必死だったから自分というものに向き合えず今に至り、今更ながら空虚感や無力感を見つめてうなだれている。
1回目の手術後ICUで目覚めました。 10日間も目を覚まさず、ずっと気管に人工呼吸器を入れていたので気管に絡まって声がでなくなっていました。 その時、私はよくは知らなかったのですがすでに父と母は離婚をしていて、「どうして父がいないのだろう。」と思っていました。 しかしICUには何回か父が面会に来ました。 父の話をすると祖母や親せき、母が不快な空気を醸し出すので私はあまり父の話もせずに、父のことを聞かれても分からないようにふるまっていましたが、ICUにいるときはそんな小細工
小学校1年生の超怖い先生も定年退職になり、2年生ではとても優しい先生が担任の教師になりました。 小学2年生になって初めて手術ができるかもしれないということになりました。通常先天性心疾患は早い赤ちゃんのうちにできる手術をします。 私は完全型心内膜欠損症、肺動脈狭窄症、無脾症、両大血管右室起始症という心臓疾患がその当時ありました。 今はその手術の成功率(なにをもって成功というのか私はわかりません)は90%の格率なんだそうですが、その当時は60%でした。 夏休みを挟んで福岡の病
幼稚園の卒園式は私は満面の笑みで「おさらば~」と思いニコニコしていました。 そして母が悩んでいたのは小学校入学問題。 私は同じ心臓疾患をもっている幼馴染のなき君が通っている小学校に通えるものと思っていました。(なき君は幸い軽度の心臓疾患だったので生活に問題はありませんでした。)また、なき君の妹のみさちゃんも同級生だったので同じ小学校に通いたいという気持ちが私にありました。 私の入学問題は教育委員会でも話し合われ、校区の校長先生、教頭先生他何名もの先生と教育員会の方とで面談
先天性心疾患の子どもたちが夏のキャンプに行ったり、集まって情報交換をできるように「心臓守る会」という団体がありました。 サマーキャンプには医師、看護師、救急車が同行して日ごろできないことを思いっきりできるようにしてありました。 私も毎年とても楽しみにしていました。 そこで私は年が近い兄弟と仲良くなりました。お兄ちゃんで私より2つ年上の「なき君」と同い年の「みさちゃん」でした。 母親同士もなくよくなり、私とみさちゃんは同じ幼稚園に入りました。 幼稚園ではみさちゃんと違うクラ
大きな絵をみんなで描こうという幼稚園の工作の日がありました。 ちょっと大きめの瓶にインクを入れてもっていく作業を私はしていました。 ピンクのインクをなみなみといれた瓶をそっと持ってゆっくり歩いていっていましたが、何かの拍子に転んでこぼしてしまいました。 そのこぼしたピンクのインクは同じクラスの女の子の上履きにちょっとかかってしまいました。 「しまった」と思って謝らないとと思い、ふと顔をあげると担任のシスターが手を振り上げてビンタをしようとしていました。 私は危険を感じ、走っ
幼稚園ではほぼ一人で遊んでいました。 運動場に出ると押されてケガをするので、ほとんど本を読んで過ごしていました。 担任のシスターにも嫌がらせを受けていましたが、同じクラスの子どもたちにもいじめを受けていました。 大人がいじめているんだからいいだろうと思うのは至極当然ではないかと思います。 そのリーダー格というか、クラスを仕切っているルミちゃんという子がいました。そのルミちゃんがしつこくいじめをしてきます。 後ほど、私が中学生のときに聞いたことなのですが、ルミちゃんもルミち
私が通っていた幼稚園は月2回の月曜日はパンの日でした。 私は菓子パンが苦手。特に一番嫌いなマヨネーズが嫌いなのでマヨネーズが入っている幼稚園のパンはにおいを嗅ぐのもいやなほどでした。 サンドウィッチやハンバーガーなどだったのでほとんどマヨネーズが入っていました。 幼稚園時代私はほとんど食べることに興味がなかったのでお弁当も母はとても工夫してかわいく、楽しく作ってくれていました。キャラ弁の走りのようなものを作っていたのではないかと思います。 パンの日は朝から憂鬱でした。パン
運動は全然できなかったのですが、なぜか幼稚園の運動会のかけっこにでるかと聞かれました。 私はずっと「みんなと一緒にできる」ということがうれしかったので「かけっこにでる!!」と意気込んでいました。 当日かけっこに出ましたが、日ごろは走ると息苦しくなるので走らないようにしていたのですごく遅く、とてもみんなから遅れてゴールしました。 一人で走っているとき「風紺紺ちゃん、がんばれ~」と放送で何度も言われて、私の祖父母をはじめ、障がいを抱えて頑張ってかけっこをしている姿を見てみんな