「思い込み」試論②~竹内レッスンのことなど~
「思い込み」って、いったいどんな仕組みで起こってしまうんだろう?
もちろん誰だって、何かしら「思い込み」を持っている。
自分はこんなヒトだとか、あの人はこんなヒトに違いないとか、はたまた、この会社は自分を辞めさせようとしているんだとか…。
それでもたいがいの人々は、そんな「思い込み」を抱きながらも、なんとかかんとか社会生活を送っている。うまく融通をきかせながら…。
でもときどき「思い込み」が幅をきかせすぎてしまって、ふつうの生活が送れなくなってしまうことがある。
風の丘に相談に来られる方のだいぶぶんは、そんな「思い込み」によって仕事ができなくなってしまった方だ。
いま辛い状態にある方々が少しでも楽になってほしいと思い、この「思い込み」の正体を見極めたいという気持ちを強く持ってきた。
ひと昔前から、この「思い込み」は自閉症とか発達障害によって生起するんだという説が一気に広まった。これで「思い込み」の正体がわかると思い、僕なりにいろいろと調べてみたけど、じつを言うとあまり興味が持てなかった(面白くなかった)。
いまのところ僕がかんがえている「思い込み」の正体は、“やっぱり言葉なのかな?”ということ。
若いときに、ぼくは竹内敏晴さんが創出された竹内レッスン(「ことばとからだのレッスン」として有名です)を受けていた。
直接の師匠は、竹内スタジオ・るつぼの伊藤昶さん。
確か野口体操か「からだほぐし」のレッスンを受けていたときだと思う。
何らかの言葉を投げかけられるだけで、自分のからだが無意識にピシャっと固まるのがわかった。 頭でその言葉を理解してピシャっとなるのではなく、まずからだがピシャっとなる。
それからピシャっとなっているからだに気付き、その言葉と自分の関わりの探求が始まる。
そのピシャっとなる言葉は、それぞれ人によって異なるので、当然のように探求の先に見えてくる言葉の風景も、もちろん一人ひとり異なる。この前のブログで言った、それぞれの「見えざる言説」が次第に露になる、といえばいいだろうか。
そしてその「見えざる言説」は、どうも単語をそれぞれ入れ替えながら、その言葉の配列だけをプロトタイプにして残していく(痕跡化していく)ようなものらしい。
このプロトタイプがなんらかの理由によって、単列化していくと、あらゆる日常での出来事がこの単列化したプロトタイプ(言葉の配列)によって布置されていく。
竹内レッスンとは、このプロトタイプ(言葉の配列)をからだの経験として気づき、からだをときほぐしていくことで、プロトタイプ(言葉の配列)を揺るがせ、言葉との新たな出会いを可能にする体系なのだろう。
このプロトタイプ(言葉の配列)が、もしかしたら「思い込み」の正体(基礎構造)?
そんな模索の中、その後の思考に決定的ともいえるほどの影響を与えた一冊、中村元さんの『龍樹』と出会うことになる。