光と色の関係と考察 No Colors Without that Light
毎朝夕の散歩(時にランニング)が日課になってどれぐらい経つのだろう。
毎日同じ川沿いを歩くものだから
景色に飽きるのかと言ったらそんなことは全くなく。
むしろ逆で、
ここ数ヶ月ですっかり日の出が早まり、日の入りも遅くなった為、光の加減で異なる光景を見せてくれる自然の景色に息を飲むことがしばしばだ。
早朝の、うっすらと月の名残が見える時、雲ひとつない空が徐々に色合いを変えていく様、夕暮れ時の、なんとも言葉に形容し難い赤い輝き、一番星が見える時。
光の加減で、世界は七変化する。
日々同じ景色を見ながらも、かすかに変わる光の加減から、ふと気づいたことがあった。
先日の、わずかに太陽の光が残っている夕暮れ時の散歩。
日が落ち、影が徐々に濃くなる夕暮れと夜の狭間、朝見た新緑眩い木々とは程遠く、いくつもの大きな黒い手が迫ってくる影のお化けのように感じられた。
よくよく目を見張ると、かすかに緑の原型を留めているが、それは本当に微かで、朝の生命感溢れた緑とは異彩を放っていた。全く別物に見えたと言っても過言ではない。
その時にはたと思ったのだ、「光の加減で、色彩が変化する」と。
同時にこうも思った、「光がなければ、色は存在しない」と。
そう、暗闇の中で、色は、色の役割を果たさないのだ。
染織家の志村ふくみさんの著書『語りかける花』にこんなくだりがある。
私は次第に”色がそこに在る”ということではなく、どこか宇宙の彼方から射してくるという実感を持つようになった。
色は見えざるものの彼方から射している。色は見えざるものの領域にある時、光だった。光は見えるものの領域に入った時、色になった。
実は上記の本を読んだのは半年ぐらい前だった。
その時は、なんとなくわかるような気もしたが、今思えば、頭の理解で終わっていた。
それが、太陽が世界に広がっていく瞬間と、そこから世界が一気に明るくなり光が広がっていく様と、太陽が世界から徐々に彼方に消えてゆき、闇が世界を覆い尽くす様を、日々観察することで、彼女の言わんとしていることが、あの夕暮れ時の、緑の色彩の違いをありありと眺めた時にストンと腑に落ちる感覚があった。
光があって、初めて、色は存在する、と。
だからなんだって言うのだろう。
別になんだってことはないし、世界の見え方がガラリと変わるわけではない。
ただ、変わったことと言えば、太陽の傾きを感じられる時間が増えたこと、絵を描く際に、より繊細に、愛を持って色を選ぶようになったこと、朝描いた作品を夕暮れ時に再度見直して感じ方の異なりを実感すること、夕暮れから夜にかけて、のどんどん薄暗くなっていく様子をより目を凝らして感じ取るようになったぐらいだろうか。
昔の人は、電気がなく、日の出と共に起き、日の入りと共に床に着いたという。
そうするしかなかったと言えるけども、逆に便利になりすぎた私たちの社会、たまには電気に頼らず、もう少し微細に、光の加減によって移ろいゆく色彩を、愛でる時間を持てたらいいのではなかろうか。
先程の文章には続きがある。
もしこう言うことが許されるなら、我々は見えざるものの領域にある時、霊魂であった。霊魂は見えるものの領域に入った時、我々になった、と。
色についても、我々についても私はこう実感している。
色も我々も、根元は一つのところからきている、と。
そうでなくてどうしてこれほど色と一体になることができるだろうか。自然の色彩がどうして我々の魂を歓喜させるのだろうか。
光には、全てが内包させているような気がしてならない。
2021.4.27
Kayo Nomura
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