「好き」をベースに、自分の中に拠り所となる場所を育てる(推しについて語るときに私の語ること②)
1年で10回も「推し」のライブに行った理由
この1年、毎月のように、大好きなギタリスト・井上銘さんのライブに行っています。その回数、1年で10回!(本当はもっと行きたかったけれど・・・(^^;)いろんな会場で、いろんな共演者と、いろんな曲目を演奏するのを見て、聴いてきました。
どうしてそんなに行っているのか?と訊かれれば、ちょっと不思議な言い方ですが、「自分のことを知りたいから」なんだと思います。どうしてこの人の演奏がそんなに好きなのか、何にそんなに惹きつけられているのかを知りたい。
それを知ることができれば、もっと本質的に自分というものがわかるのではないか。自分がどういう感性を持っていて、どういうことを大切にしたいと思っているのか、それを教えてくれるような気がして、つい行ってしまうのです。
そして、それが簡単にはわからないというのも、何度も行っている理由だと思います。私はPRという職業柄もあって、何でも言葉で捉えて、なんとかロジカルに説明しようとするのですが、ライブの時はそれがなかなかうまくいきません。「真摯さ」「美しさ」「温かさ」のような概念的な言葉は浮かぶけれど、論理的・具体的に表現しようとすると、いつも捉えどころのなさを感じます。
でも、そのわからなさが新鮮で心地よいのです。音楽に包み込まれるように、いつの間にか「考える」ことをやめて、「感じる」ことに身を委ねている自分に気づきます。そしてライブが終わると、なんだか今日も良かったな、確かに自分の中に何かが残ったな、という感覚があります。そしてまた翌日には次回のスケジュールをチェックしているのですw
「好き」をべースに自分だけの領域を育てることが、自分を支えてくれる
「確かに自分の中に残った何か」をあえて言葉にするなら、「自己信頼」や、「自分の中の拠り所」のようなものではないかと思います。
毎日の生活の中で、仕事や、いろんな役割や、あるいは人との関係の中で、楽しいことや嬉しいこともあれば、落ち込んだり悲しくなったりすることもある。あるいは、日々たくさんの情報が入ってくる中で、振り回されたり、不安になったりすることもある。
社会の中で、ある程度外に自分を開いて、いろんな人やことと関わって生きている以上、誰でもそうだと思いますし、自分と外の世界との関わり方は、自分だけではなかなかコントロールできないものです。
その反面、「好き」だということは、自分の中で自分だけの領域として大切に持っておけるものなのだなぁと、最近実感しています。この1年、ライブに行ったり、家で音楽を聴いたりすることで、自分の中に少しずつそういう領域が育ってきたなと感じています。
そして、今では日常の中でいつでもそこに立ち戻って、自分の支えにすることができるようになりました。たとえ何か心がざわつくことがあっても「そうだった、こういう音楽が好きなポジティブな自分もいるんだった、だから大丈夫だ」というように。(ある種のレジリエンスとでも言うんでしょうか?)
今までどちらかといえば、自分の「外の世界」にばかり気を取られて生きていたのが、揺るぎない「中の世界」を持てるようになったことで、随分生きやすくなりました。
自分にとって「リアルである」ことが大事
井上さんは「新世代のジャズシーンをリードする若手天才ギタリスト」さんなのだそうですが(すみません、後から知りました💦)、自分の中ではそういう評価は、もちろん「すごいなー」とは思うけれど、彼の音楽を聴く直接的な理由にはなっていない気がします。大切なことは、どこまでも主観的に、彼の奏でる音楽が「私にとって」リアルであるということだけです。
「リアルである」というのは、聴いていると自分の体と心が喜んでいる気がする、とか、自分自身とすごく調和している気がする、とか、自分の深いところにある気持ちやアイデアにアクセスできるような気がする、とか、そういうごく個人的な感覚です。
音楽に限らず、私は誰かが自分の好きなものについて語るのを聞くのが好きです。例えば、普段仕事仲間として働いている人たちからも、「高校生の頃からドラムをやっている」「ガンバ大阪を応援してしょっちゅう遠征している」など、驚くほどいろんな「好き」の対象や形を教えてもらうことがあり、その人の仕事以外の一面が垣間見えた気がして、とても嬉しくなります。
料理をするとか、スポーツをするとか、写真を撮るとか、メイクをするとか、パンダや猫の写真を愛でるとか(これは私もやっています!)、何だっていいと思うのです。大事なことは、そのことが本当に好きで、やっていると自分らしくいられる、自分にはこれがあると思えて、自分を信じて好きになれるということではないかと思います。
そして、案外こういうことって、外の変化が激しい時代に、生きる上での支えになってくれると思うのです。