100年の時を超えて繋がる家族 | 写真花嫁だったひいばあちゃん
こんにちは、オーストリア在住のKayです。
移住一年を迎え、まだまだ慣れない日々ですが、少し心が落ち着いてきたのか、日本の家族のことをふと考えることがありました。特に、曾祖母までさかのぼって想いを馳せていました。
なぜかというと、彼女の存在が、今の私のオーストリア移住のきっかけになったといっても過言ではないから。曾祖母は、母が中学生くらいの頃に亡くなっているので、私は会ったことがないにも関わらず、彼女の存在は三世代を超えてしっかり影響しているのです。
私の曾祖母は「写真花嫁」でした。
19世紀末、日本からの多くの独身男性が財を求めてハワイや米国本土に移住しました。米国における初期の日系移民です。出稼ぎとして、短期で帰国するつもりだった彼らの多くは、そのまま現地に定住しはじめます。
ただし、米国政府が異なる人種間の結婚を禁止したため、家族を持ちたい日本人移民は、家族が決めた相手との結婚か、一度日本に帰って結婚相手を見つけるしか選択肢がなくなっていまいました。そんな中、実際に会わずに写真だけで縁談を決め米国に移住してくる女性たちのことを「写真花嫁」と呼ぶようになったのです。
まさに私の曾祖父母がこのパターンでした。
曾祖父が、単身米国カリフォルニア州に移住し、ブドウ畑を経営して生活をしていたようですが、ある程度落ち着いてから、結婚を考え、親せきの仲介を経て、曾祖母の紹介を受けたようです。
正確な年はわかりませんが、「写真花嫁」が盛んに米国に移住したのが1908年から1920年とのことと、1925年頃に本帰国するまでに、現地で5人子どもを産んでいるというのを考えると、おそらく曾祖父は1900年〜1910年頃、曾祖母は1910年~1915年頃に渡米したと推測されます。
曾祖母は、曾祖父の写真だけ見て、未来の夫と輝かしいアメリカ生活を夢見て、単身カリフォルニアに船で向かったのです。おそらく20歳前後だったのではないでしょうか。
何ヶ月もかけて、やっと到着して、待ちうけていたのは、なんと見合い写真よりだいぶ老けている曾祖父。
「写真花嫁」と検索すると、これはかなりあるあるのパターンだったようです。
母の話によると、やはり「だまされた!」とは思いつつも、やっとの思いでカリフォルニアに到着し、戻るに戻れずそのまま結婚を成立させ、現地で生活をスタートさせたとのこと。
初めて会った男性と、初めて訪れた米国で生活をスタートする。
どれだけ苦労があったか、想像すらできません。
優雅な米国生活どころか、ブドウ農園経営ということは、文字通り泥まみれな日々だったのではないかと思います。
しかしながら、曾祖母が母に語ったのは、もっと美しい部分でした。
母が曾祖母の家に遊びに行くと飾られているのは、現地で西洋ドレスを着て撮影した写真。
ちょっとカッコよく英語を話す曾祖母。
そして米国がどれだけ大国で、第二次世界大戦において、必ず日本は負けると分かっていた、と話す曾祖母。
母にとって憧れの存在でした。
1925年頃、資金がまとまったので、家族全員で帰国し、帰国後、九州の小さな町で生まれた子どもが私の祖父でした。祖父は、自分が日本で最初に生まれた子だというのを誇りに思っていたようで、よくこのことを言っていました。今思えば、アメリカで生まれた兄姉のうらやましさからくる強がりだったのかもしれませんが。
もちろん移住生活は大変だったはずで、夫婦関係が実際どうだったかは、もう誰もわかりません。ただ、子ども7人に恵まれ、資金もそれなりに貯め帰国し、たまたま開戦前に帰国していたので、財産も没収されず、戦中の日系人収容所も経験せずに済み、最後まで添い遂げたことを考えると、曾祖父母はかなり幸運な移民だったのかもしれません。
そして、その影響か、新しいもの好きな祖父。
海外に対する憧れを抱いた母。
ちなみにこの新しいもの好きの祖父は、カラーテレビを誰よりも先に購入し、近所の人が集まることに喜びを感じていたとか。職業柄、「金は天下の回りもの」というのを体現した祖父でした。
そんな母が中学生でハマった、「推し」はウィーン少年合唱団。
1970年頃にウィーン少年合唱団にはまる九州の田舎の中学生ってかなり変わり者だったと思うのですが、ネットもない時代にどう情報収集したのか、ウィーン少年合唱団来日公演を見に行き、出待ちでバスで少年たちが通り過ぎるところを、羨望の眼差しで、必死に手を降っていたとか。
透き通るような白い肌に、天使のような歌声、輝く金髪の少年たちは、当時母にとってまさにアイドルだったのです。
面白い御縁で、私はウィーン少年合唱団の本拠地に住むことになるのですが、これを知ったのは移住後でした。
そして、次に母が興味を持ったのはキリスト教。
実際、小学生の頃、私も母に連れられて、聖書の勉強をしました。子ども用に書かれた絵本のような聖書を、信者のご家族(日本人)の自宅で読んでいました。
色使いや世界観が他の絵本と比べ異色だったので、それがとても印象に残っています(そして吹き出しなどをつけて落書きをしていた私を、信者の方たちはよく怒らず見守ってくれていたなと思います…)
しかしながら、父の反対と、母も「なんか違うかも」という感覚から、信仰することなく短期間で終わったのですが、知識として学ぶことができて良い経験でした。
また、母がキリスト教に惹かれたのは、ウィーン少年合唱団の聖歌や、教会の建築やステンドグラスの美しさなど芸術的観点だったということにも気づいたようです。
このように、様々な観点からいわゆる西洋文化に興味津々だった母。私に留学を勧めたり、英会話に通わせるようなことは一切ありませんでしたが、じわりじわりと影響していたのでしょう。
ただ、同じ環境で育った私の妹は真逆で、日本を一切離れてません。家族で海外旅行に行ったこともありません。近くに外国人の友人がいたわけでもなく、日本にいながらここまで海外に興味を持ったのは、なんだか不思議な運命を感じてしまうのです。
曾祖父母の日本帰国から100年経った今、三世代を超えて、また海外移住することになるとは、想像もしていなかった未来が訪れ、曾祖父母が見たら何と言うのだろう、と考えます。
特に、曾祖父は母が産まれてすぐ亡くなっているので、彼のことを知る人はもういません。どんな気持ちで単身渡米したのか、現地でどう生活を立ち上げたのか、曾祖母と初めて出会った時はどんな思いだったのか。聞けたらどれだけ興味深い話をしてくれるだろう、と。
100年の時を超えて、繋がる家族。
海外に来るたびに、どこか守られている気がするのは、まさに日系移民の先駆者として米国という未知の世界に飛び込んだ曾祖父母たちが見守り、「よかよか、そん調子ばい!」私を応援してくれているからなんだろう、と感じます。
彼らのパイオニア精神の熱い血が、私にも流れているかと思うと、それは何よりも強力なお守りなのです。
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