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「プロット」はストーリーに必要なのか
プロット
戯曲や小説で、展開するさまざまな事件を統合し芸術的効果をつくりだす筋の仕組み。
プロットというものがある。それはストーリーを生み出す際に、いきなり完成品というのはとてもではないけれど難しいから、その前段階としてざっくり筋立てを書いてみるものである。
これはとても重宝されている。特にストーリーを作ることを仕事としている場合には、プロットは確実性を与えてくれるから必ずと言っていいほど作られる。
それにプロットは、いちど「どういうストーリーなのか」ということを大筋に示すことができる資料でもあるのだ。ストーリー作りを1人でやっていようが、集団でやっていようが、アウトプットされて目の前にあるというだけでも、やりやすさが大きく違う。
プロットからさらなるアイデアが出ることもあり、しかもストーリー全体を見回すことも簡単だから粗も探しやすい。もはやこれを作らない手はないというくらいに、プロットとはストーリー完成の前段階として非常に優秀である。
とはいえ、それでも、プロットが必ず作られるかと言えばそうではない。プロットよりまったく前段階のふわっとしたアイデアから、いきなり完成品まで持っていくこともあるし、もはやそんなものなく、最初から完成品を作り出すことだってある。
しかもそれらは、プロットを作った場合と比べてなんら完成度が見劣りしないことも多い。なのでプロットというものの存在意義は少し揺らぐ。
でも、それは才能ではない。そしてプロットが必要なかったということでも、存在していないということでもないのである。つまり「いきなり完成したストーリー」が生み出されるのは、その作者にとって、既にプロットがあるからそうなるのである。
プロットに関するよくある思い違いの1つに、それは「プロットという完成品」を作らねばならないというものがあるのだ。プロットという言葉はかなり当たり前になって、アマチュアからプロまでまったく疑問に思うことなく作ることができる。だからこそそれは、1つの完成品として、まるでプロットという作品とでもいうかのような扱いを受けてしまっているものでもある。
けれどもプロットは、完成品までの繋ぎでしかない。それが本来の姿であり役割だ。だからそれは、便利なのである。ツールとすら言えるからだ。それは補助するものであり、手助けになるものだ。
そのため、実際のところプロットとは、人によって様々な形をしていて当然のものである。それは確かに目の前にあればアイデアを湧き出させることも、全体を見渡すのを容易にもするかもしれない。
けれども必ずそうでなければならないものではない。重要なのは、プロットとは「前段階」「大筋」であるという点である。それがその役割を果たせるのなら、どこにあってもいいし、わざわざ書き出す必要すらないものなのである。
ストーリーにおけるプロットというものは、今やかなり一般に理解されているものである。だがそうであるがゆえに、それはいつの間にか「作るべきもの」にすらなってしまっている。
しかしプロットとは、ストーリーの助けになるものであり、それ以上でも以下でもない。決まった形など、本来はないのだ。だからプロットという言葉に惑わされることなく、ストーリーは紡がれることそのものこそ、きちんと為されることが望ましい。
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