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私達はどうして頑張るのか

 仕事だからと頑張れる人はどのくらいいるかといえば、実のところごくごく少数である。すなわち仕事というものの責任感をきちんと背負って、そして何かを成し遂げるということは普通のことではなく、特別なことなのだ。
 しかし私達は時として、仕事ができるということをとても簡単に捉えてしまう。それは根本的に、自分ではなく誰かのために頑張ることであり、生き物の本能とは真逆の行いなのに。「仕事なんだからちゃんとやろう」とか、「楽しようとしちゃだめだよ」とか「頑張ってやり遂げよう」などという言葉は、まさにこうして、仕事を頑張れる人にしかはまらない理想論である。

 もちろん、頑張りらなければならない時というのはある。たとえば自分のために頑張るというのであれば、それはその人の自由である。そして頑張らないこともまた、自由だ。
 ただ、頑張ることはスタンダードではないし、義務でもない。まして、仕事だからこそそうしなければならないという考え方は、大きな間違いを引き起こす。
 つまり、仕事とは他人のために動くことなのだから、やらねばならないことをやらないのは迷惑をかけるし、他人に不利益をもたらしてしまのは自由の範囲を超える。でも、私達は仕事のために生きているのではなく、それは手段なのである。
 そして頑張ることは、他人ではなく自分のためにこそ多くそうすべきことのはずだ。私達は無限に頑張れるわけではない。その力には限りがある。貴重なそれを、どこまで他人のために――つまり仕事のために使うかは、本当はよく考えねばならないことである。
 ましてや、それを世間の風潮とか常識とか他人の要望によってコントロールされていいはずがない。

 だから、本当に仕事を頑張れる人は稀なのだ。それ以外の人は絶対に、ふと気づかされる。この頑張りは強制されていると。頑張らされているのだと。そう思う時、その頑張りは不毛だ。いつまでも続くものではない。だからきちんと、自分自身にコントロールを引き戻すべきなのである。

 誰かのために、そして誰かのように頑張りたいと思うこともまた当然のことだ。でもまず「頑張り」は自分自身の手の中にあるものだと、きちんと認識しなければならない。
 そうでなければゆくゆくは、自分自身の人生すらも、頑張りという名のエネルギーから遠ざかってしまう。

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