「先」のためには「後」があるのだと考えてみる。

 誰でも先を見据える。朝起きて時計を見た時、今日は何をするんだろうかとか、その前になにか食べようかとか。もっと未来の、あの学校に入ったら、あの会社に入ったらどんな生活が待っているだろうかとか。老後はどんな家に住んでいるだろうかとか。

 未来を想像することは癖のようなもので、それは私達にとっての時間が常に進んでいるからである。巻き戻せない時間というものに対して、私達にできることは常に予想することだ。だから必然的に私達にとっての行動の価値とは、それが「未来のためにどう役立つのか?」を基準としている。
 つまり先は誰でも見ているし、それは誰にとっても大切だと思えることだということだ。無意識にせよ、私達はいつも「先」を大切にする。そうしてしまう。だから私達にとって、そうでないものは大抵の場合「良くないもの」に映る。具体的には過去にしがみつくこと。伝統的という言葉、因習にとらわれること。昔からある何かを、私達はとても否定しやすい。感情的にスッキリする。

 でも、先は、未来は、過去から続いていくものだ。それを礎として成り立っているものだ。時間がどうしようもなく未来的であるからこそ、その軌跡は過去からずっと途切れることなく続いている。時間はもちろん、過去を振り返らないだろう。けれど私達はそれを記録し、記憶している。ともすれば、それをまだ持ち続けている。
 私達が先を見据える時、必ずそこには過去がある。それから切り離された存在はない。だから未来的な考えをする際に間違えてはならないのは、それが未来のためだけにあるものだと驕ってしまうことである。
 先は後のためにもなるものだし、時には未来が昔を助けなければならないこともある。

 誰でも先を見据えるからこそ、だれでもそうして、振り返って後ろのことも気にかけることがあっても良い。そのように繰り返しながら、たまに戻りながら、私達は未来をより良くしていく。

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