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自分の「動きだすこと」よりも「止まっていること」に注意する

 動こうとするとき、人は相応の注意を払うものだ。目の前に障害はないか、あるとしたらどのようなものか、そして対処法はどうするのか。あるいは、動き方は正しいのか、本当に今動くべきなのか、最終的にどこへ向かうのか。
 動き出すとき、私達はそれをきちんと捉えようとする。その行為に関する正しさを、見極める気持ちがきちんとある。なぜならそこには、動くためにエネルギーを使うからだ。コストを払うからだ。何かを失わなければ、動くことはかなわない。そう思うからこそ、それについて考えようとする。少なくとも、それ相応に。

 でも、私達は一方で、動き出さないときには何もしない。それどころか、何もしていない自分自身を無視すらする。それは別に、見ていなくても、監視していなくても、注意を払わなくてもいいものだと、言わんばかりである。つまり人間は、止まっていることと、そのままであることを何ひとつ反省などしない生き物なのだ。
 けれど、止まっていることを肯定こそしないとはいえ、そのままにしていることは生き物として矛盾である。どうしてかといえば、人間とて生物である以上、その存在価値は「変化」と「進歩」にあるからだ。もしくはそれは、「退化する」「現状維持」に抗うということと言ってもいい。
 生物は、時の経過とともに必然的に劣化するしかない。月日にさらされることによって、生き物である人間はどんどんと悪くなっていく。つまり、それをはねのけて良くなっていくことを目指すために、生き物はエネルギーを使っているのである。そのために、ただただ現状を肯定するかのような姿勢は、人間としてどころかいきものとして悪とすら言える行為なのである。

 しかし、実際のところ「現状維持」はなんの労力もない心地よい時間である。それが後々の死を招くとしても、気づかないふりをしてそうであることを肯定してしまうほどに、それは甘い。
 だからこそ、私達はなんらかの「行動」よりも「静止」に優しくなってしまう。自分自身の今がそうであること、当然であること、信じていることなどに対して、そうそう改めたりすることは難しい。
 そうして私達は、そのすでに古臭くて改めなければならないはずの「常識」「現状」「日常」を前提として行動してしまう。そうして初めて、その行動は間違っていることに気づく。でも私達は、動き出すことばかりに厳しくて、ついつい行動を戒めてしまう。

 本当に注意深く見るべきは、動き出した瞬間ではなくその前にあるはずの「静止した今」のはずなのに。それを改めようと思い至らない限り、間違った行動はいつまでも繰り返し、間違われることになる。

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