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嫌いでも、人は「好き」を作ってみせる

 好きなものを嫌いになるのは簡単だ。なぜなら好きという気持ちは恐ろしく独りよがりで、好きになればなるほど、その「好き」は自分の中で大切に育てられたものになるからだ。そうなると最早、好きの対象はかつての好きなものには向いていない。自分が好きだった一部分、記憶、気持ち、そうである自分自身に、好きは混ざっていく。
 だからもう、かつて好きだったものはいくらでも嫌いになれる。好きなのはそれではないから。好きなのは己の抱く偶像だから。むしろそんな偶像を大切にするためには、現実のものなど邪魔でしかない。変わり、移ろい、衰え、遠ざかっていくかつて好きだったものを、同じ気持ちで愛し続けられる人などいない。
 それが「好きを嫌う」メカニズムと理由だ。
 人は簡単にそうなれる。でも一方で、好きを嫌いになったことを、誰かに言うのは意外と難しかったりする。

 かつて好きだったもののことを、「自分はこんなに嫌いになったのだ」などと嘯くことには、人は抵抗を覚えるのである。なぜならそれは、自分を否定することだからだ。かつて好きだったものを嫌うことはできても、そうであった自分をそうするには、大抵の人は勇気がない。
 なので何かを嫌いになっても、表面上は態度変えないように振る舞っている。もしくはその、かつて好きだったものをなおも擁護し、肯定し、あまつさえ否定する人から守ろうとしたりする。
 そういう行為は好きだからできるが、別に嫌いでもできるということだ。というよりも「好きだった」ことを私たちはどうあったって割り切れない。それは対象と、自分との強い関係だから。嫌いにはなれても、そうだと表明することには中々踏み切れない。

 好きなもの嫌いになるのは簡単である。でもそれを肯定し、かつて好きだったものの敵対者として君臨する勇気は、私たちにはなかなかない。この世にはあらゆるものを擁護する人が居て、肯定意見も多くて、でもだからといって、それが「好きだから」やっているとは限らない。
 嫌いでも肯定はできる。表層的には、私たちは自分の「嫌い」を隠して、もしくは気づかないまま、他者から見た「自分の好き」を形作っている。

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