教育の正義と「明け渡す」勇気
正義とはそれが正しいと信ずるに値する、何らかの信念のことである。あるいは、物事においてそれを正しい方向を導く不可欠な理念を指す。様々な意見や言説や思想が入り交じる社会の中で、そこに1つの信ずるものが在ることは重要である。
ともすれば、正義は曖昧になりやすい。それが自分のことではないならなおさらである。たとえば「教育」という、他者のための行動もしくは、未来のための行動に関して、私達はよく正義を見失う。どのような教育が正しくて、何が称賛されるべき教育で、そしてこの先のためになるのか、そう簡単には分からない。それに、別にそれは、自分のためではないと思える。誰かを教育するのは、その誰かのためであって自分のためではないと。
そういった、想像のしにくさや当事者意識の薄さによって、特に教育といった概念は正義を見つけられない。あらゆる方法論が、好き放題に、のべつまくなしに語られる。それらは正しいこともあれば、間違っていることも在る。もし、教育をしなければならない時、私達はそのような中から選んだり、少しずつ取り入れたりしながら、他人のために頑張らなければならない。
その労力が、ますます教育を、私達自身から離れさせる。無意識にだ。この「離れる」とは、面倒ゆえ心理的に教育のことがどうでも良くなるという意味ではない。「他人のため」と思えばそうするほど、つまり教育に熱心であればこそ、教育の正義からは離れることになりがちだということだ。
教育は他者のためではなく自分のためである。なぜならば、教育の正義の1つが「明け渡す」ことだからだ。あなた自身のやるべきことを、やってきたことを、やらねばならなかったことを、その教育対象もできるようになってもらう。それが教育の正義の1つである。
だから、教育は、とりもなおさずあなた自身のこれまでについて見つめ直すことになるのだ。むしろ、そこに他から借りてきたカリキュラムや基準や理念や「~すべき」はいらない。というより、それらは再現できない。あなたのものではないからだ。教育の正義が「明け渡すこと」と考えれば、それは、あなたの中にあるものを誰かに渡すことだと想像できるからだ。
明け渡すを正義と捉えることにより、教育の他人事感は薄らいでいく。私達は明け渡さねばならない。自分から他人へ。教育として、自分が背負うものを。そして、それが完了した時に初めて、他人事になるのだ。明け渡してしまった私達自身の何かは、きちんと託されたのだから。私達はまた、別のやるべきことをやるといい。
それが教育の、1つの形であり、正義である。私はそう信じているし、誰にでもそう信じてほしいと思う。そうして、より良い形の教育が広まることを願っている。
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