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私達の知れる範囲は広くない

 現代に情報が溢れているといっても、それらは溢れているだけであって、そのことがそのまま、私達が情報にどっぷり浸かっていられるということを示すわけではない。

 情報化社会という言葉は確かに情報とそれを知る手段の多い世の中を示すが、あくまでそれはそのような状況を表しているだけだ。そこに住まう私達は何も変わっていない。もちろんこの溢れる情報と効率化の世界に対して何もしないわけではない。
 しかし私達は、それぞれが1人の人間でしかないのである。それが進化と呼べるようなものを経るには、流石にこの情報化社会は長くない。まだまだ新しい時代である今において、人間は依然として旧来のまま過ごすことを余儀なくされている。

 ライフスタイルの変化はあろうとも、私達の感覚器官は増えておらず、2つの目と2つの耳と、鼻と、舌と、そして皮膚である。それを処理する脳もまた、それについての新たな発見はあるものの、大きく変わっているという事実はない。
 私達は、この溢れる情報をどれだけ受信しようとも、そこには限界があることを知らねばならない。情報の泉はなみなみと水をたたえているが、しかし、私達が持てる桶は1つなのである。いや、人によるのかもしれない。でもその桶を、今はまだ新しく増やすことはできない。

 だから、私達は変わっていないのだ。変わりようがない。もちろん、かつてよりは受け取る量が増えて、その分による違いは出てきたのかもしれない。でも、限界量があるのだ。その限界に達してしまったら、それ以上の情報は無理である。受け取れない。そして情報を手に入れる方法、ツール、場所、機会が増えたとしても、それを使う数の限界もある。
 あれもこれもと、色んなところから情報を取得することが、無限にできるはずもない。私達の感覚器官は何も変わっていないのだから。その中でやりくりしなければならないのだから、与えられる情報が、方法が、いくら増えようとも限りがあるのである。

 即ち、まるでそこに限界がないかのように、私達は、私達自身の「情報化」の理想を語るべきではない。それは向こう見ずな挑戦というものである。どれだけ様々な出来事が起こり、そしてそれが拡散され、誰にだって知れるようになっていようとも、それは当然ではない。
 誰もがあらゆる情報を手にできる時代というのは嘘だ。それは誇張でしか無い。あくまでも私達は、私達それぞれの範囲において、できるだけの情報を、できるだけのやり方で集めてしかいないのだから。

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