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西洋の写本、蝦夷地の写本

西洋の写本
 私たちは「本」というと「読むもの」だと思っている。しかも、できるだけ手っ取り早く情報や娯楽を得るために、本でなくウェブで読めればよいという人が圧倒的多数であると思われる。最近はファストフードならぬ「ファスト教養」という言葉もあるそうだ。すっかり「読書」が貧しくなってしまったと言わざるを得ない。

 札幌芸術の森美術館で開催された国立西洋美術館内藤コレクション「西洋の写本 いとも優雅なる中世の小宇宙」の巡回展を見てきた。非常に美しい展覧会だった。本から切り離されたリーフと呼ばれる1ページ1ページが額装されて、詳細な解説パネルとともに展示されていた。印刷技術がまだ発明されていないころの中世ヨーロッパでは、聖書は書字生によって一文字一文字端正に書き写され、絵師によって装飾が施された。光り輝くイルミネーションのような美しいデザインの小宇宙が書物のなかに封じ込められていた。だから、たった1ページだけでも、見るものに尽きせぬ美を感じさせるのだ。
 なぜこんなにもうつくしい装飾を施したのか。それは、彩色写本が「神の威光を内面から照らす」「神の言葉(ロゴス)を光らせる」書物であり、書物の文字(=神の言葉)をより美しく飾ることで、制作者やそれを見る人々が、その神聖な美の力によって「神の国」に近づくことができると考えられたからだった。写本をつくることは、聖書を学ぶ修道士たちの聖務であり修業であった。写本制作室では完全な沈黙が要求されたという(宮田嘉久「中世の彩色写本について」参照)。
「西洋の写本」展では聖書、聖歌集、聖務日課、時禱書が展示されていた。それらを一枚一枚みていると、キリスト教の信仰が美しく彩色された言葉、歌、日課や季節の行事として実践され、人々の生活にとけこみ、内面化されたことが自然と了解された。まさに優美なる小宇宙である。
 グーテンベルクが活版印刷を発明してから500年以上の時が経った。パソコンが普及した現在においては文字はデジタル信号に置き換わった。情報は瞬時に世界中の網膜を流れていく。「本」とは「書き写すもの」だという発想は既になく、文字を美しく飾り照らそうとする写本の精神はすっかり失われてしまったかに見える。文字の美の力は失われ、「神の国」ははるか彼方へ遠ざかってしまった。

蝦夷地の写本
 林家文書「日諸用留」嘉永七年がいよいよ読了に近づいている。嘉永七年はペリー艦隊来航の年だけあって緊迫感のある日記だった。アイヌ語地名研究会古文書部会でこれまで2年半もの時間を費やし、やっと日記1年分を読み終えようとしている。これから解読本の編集作業に入る。気が遠くなるほどのスローな読書だ。
 林家文書とは、松前の商人で、ヨイチ場所を請け負った場所請負人・林長左衛門の家に伝来した文書群のことである。膨大な数の文書が残されているが、現在は散逸していて全体像がわからないそうだ。そのなかで「日諸用留」は林家の日記である。
 私たちの古文書学習会では、有難いことに余市町から林長左衛門の親族の人が参加してくれていて、地元民ならではの詳細な解説を聞かせて下さっている。解説をしているうちに興が乗ってくると浜言葉が濃厚になってきて、まるで地元の語り部が土地の空気をまるごと運んできてくれるような臨場感に包まれる。土地の息吹といっていいような言葉でニシン漁のあらましを聞いていると、日記の文字も活き活きと動きだすような錯覚を覚える。日記の書かれた一行に、遠い歴史が積み重なっているのだから、読書はスローにならざるを得ない。
 その方が言うには、私たちが読んでいる「日諸用留」は、他に原本があるのを他の誰かが書き写したものだろう、つまり「写本」だろうとのことだった。

 江戸時代には学校なんてないから、文字を覚えるのも、しきたりを覚えるのも、これまでの経緯を知るのも、ぜんぶ「写本」で覚えた。日々様々なことを書き留めた「日記」を手で書き写すことが、すなわち家の歴史を継承することだった。過去の取り決めや慣習を学び、家格を学び、ご祝儀の品のランクを学ぶ。たしかに家のしきたりを理解するのにこれほど適した勉強法は他にないだろう。私たち後世の古文書学習者が解読を通して歴史を知ることができるのもうなずけることなのである。
 書き写す人は、原本に誤字があっても誤字のまま覚えてしまうことになるのだが、それがその人ならではの「手」になっていく。後世の古文書学習者は、この誤字はこの人の書き癖なんだねと理解しながら解読していくことになる。誰かが「まさか未来の人にこんなふうに読まれるなんて、これ書いた人は思わなかったろうさ」と言って、みんなで笑いあうとき、時空を超えたコミュニケーションが生まれている。嘉永年間の林長左衛門さんがひょっこり顔をだして、みんなと一緒に笑っている。
 ますます読書はスローになっていく。スローに、スローに。文字の一つ一つに過去の光景や息吹を見いだしていく。過去に追いつくほどに、スローな読書だ。

【執筆者プロフィール】
吉成秀夫(よしなり・ひでお)
1977年、北海道生まれ。札幌大学にて山口昌男に師事。2007年に書肆吉成を開業、店主。『アフンルパル通信』を14号まで刊行。2020年から2021年まで吉増剛造とマリリアの映像詩「gozo’s DOMUS」を編集・配信。2022年よりアイヌ語地名研究会古文書部会にて北海道史と古文書解読を学習中。
主な執筆は、「山口昌男先生のギフト」『ユリイカ 2013年6月号』青土社、「始原の声」『現代詩手帖 2024年4月号』思潮社、共著に「DOMUSの時間」吉増剛造著『DOMUS X』コトニ社など。

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