「異人伝ーはぐれ者の系譜」第2回 前田速夫
その二 山中共古 柳田國男が教えを乞うた、日本民俗学の草分け的存在
皇女和宮のお庭番だった少年時代
山中共古。本名笑(えむ)。幼時の名は平蔵。一般には、二百冊もの洒落本からの抜き書き注釈書『砂払い』(岩波文庫)や、柳田國男との往復書簡集『石神問答』で名前を知られるが、その前歴が変わっている。七十九歳(数え、以下同)で永眠する数日前まで勤務した青山学院大学図書館に残る自筆の履歴書は、読みやすいように読点を補うと以下の通り。
東京府豊多摩郡大久保大字東大久保一九四番地寄留
静岡県駿河国静岡市呉服町六丁目無番地原籍
士族
日本メソヂスト退隠教師
青山学院図書係
山中 笑
嘉永三年十一月三日生
元治元年八月、旧幕府ニ於テ和宮様広敷添番ヲ被申付。明治元年迄勤務。同三年、静岡藩ニ於テ英学校教授ヲ被申付。同六年八月、静岡県庁ヨリ小学校教師ヲ被命。同九年四月、静岡県ニテ語学校設立、同教師ヲ被命。同拾年三月、語学校被廃候砌、職務差免サレ、是迄格別勉励相勤候トテ賞与金被下候。明治拾壱年九月、日本メソヂスト教職試補ニ相成、布教ニ従事ス。同拾五年、東洋英和学校神学科及教職ニ関スル学科ヲ卒業シ、同年九月、日本メソヂスト教会ノ認可ヲ受ケ、按手礼式ヲ領シ、正格教師ト相成、自来同四拾五年ニ到ル迄、静岡県下山梨県下及東京府下ニ於テ布教仕居リ候処、同年四月病ニヨリ退隠教師ト相成、大正七年十二月、青山学院図書係ニ相成候也。
罰無之候。
右之通無相違候也。
大正九年拾月十八日 山中 笑 ㊞
和宮は徳川十四代将軍家茂の正室。有栖川宮との婚約を解消、公武合体の犠牲となって降嫁した。広敷添番とは、大奥の警護に当たったいわゆるお庭番のことで、共古自身は、「いわば城内大奥の風紀係りのようなもので、御老中が入って来てもその刀を受持ってずっと一緒に通り、女方と話しているのを見ているのです。(中略)ただの役人衆の時は羽織袴の伊賀衆が刀を持ってついていくのです」と語っている。
が、表向きはそうでも、時代小説では、裏でもっぱら諜報活動を行った隠密、忍者の類に描かれており、事実、山中家(身分は御家人)の出自は、徳川家康が明智光秀による信長暗殺の報を聞いて急遽帰還するに当って伊賀山越えを助けた服部半蔵以来の伊賀衆で、その本拠地である四谷に住まっていた(現存する同家の菩提寺西念寺は、半蔵の開基。共古の墓がある。半蔵門の地名は、ここから起っている)から、一族の者でそうした任務についた者がなかったとは言えない。
もっとも、共古が大奥に詰めたのは、主に少年時代(十五~十九歳)。激動の世だっただけに、警護の仕事は厳重を極めたであろうが、まれには御殿女中たちにちやほやされたシーンも想像されなくはない(遺稿の「御広敷勤」には、勤務の詳細が書き留められているけれど、当然のことに、隠密の行動については一切触れられていない)。明治改元の際は、皇女和宮に供して京都へ行き、一年間の滞在ののち、東京へ出て一ツ橋の大学南校で一年間修学している。この時期までに、和・漢・英学の基礎が築かれたようである。
維新後は、日本人初のメソジスト派牧師に
周知のように、明治維新でもっとも厳しい目に遭ったのは、旧幕臣たちだった。戊辰戦争に敗れて陸奥国斗南の地に移った会津藩士の塗炭の苦しみは措くとして、十五代将軍徳川慶喜の跡を継いだ家達に従って静岡に無禄移住した彼らの生活の逼迫ぶりも、伝えられる通りだったろう。
明治三年、静岡城内四足門の長屋に居住した共古は、静岡英学校を振り出しに、小学校、語学校の教師を務め、六年、静岡学問所(頭取は津田真一。教授に中村正直、外山正一がいた)の後身賎機(しずはた)舎で、勝海舟の斡旋で来日したE・W・クラークに洋学を学んだ。翌年、彼が東京の開成学校に招かれた後任として、初めてカナダ・メソジスト派(プロテスタント)から派遣されてきた宣教師D・マクドナルドを通訳として助け、九年には、彼から洗礼を受け、教職試補に推された。
明治十一年、梅屋町に耶蘇教講義所を創設、静岡市内の伝道を始める。十四年、教会規定の神学課程を修了し、平岩恒保(よしやす)(日本メソジスト教会第二代監督。小説家平岩弓枝の祖父)、土屋彦六(初代甲府教会牧師)とともに按手礼を受けて、日本人初の正式の牧師となる。以後、十六年、浜松伝道所、十七年、東京下谷教会、十八年、同牛込教会、二十年、甲府教会、二十六年、沼津教会、二十八年、再び下谷教会、三十三年、同じく再び牛込教会、三十八年、静岡見付教会、四十年、吉原教会と、赴任先で布教活動に従事する。
ちなみに、この時代、旧幕臣からキリスト教の牧師に転身した静岡在の人物には、他に杉山孫六(土屋彦六の兄)、結城無二三(元新撰組)、今井信郎(同、寺田屋で坂本龍馬を襲う)、江原素六(麻布中学の創設者)、山路愛山(在野の歴史家)らがいて、彼らは島田三郎、植村正久、押川方義、本多庸一らの横浜バンド(長老派・日本基督公会)、新島襄、小崎弘道、海老名弾正、徳富蘇峰らの熊本バンド(会衆派)、内村鑑三、新渡戸稲三、有島武郎らの札幌バンド(メソジスト派)に対して、静岡バンドと呼ばれた。
薩長出身者が政界に進出して幅をきかせたのに対して、旧幕臣はその道を阻まれ、代わりに「精神の維新」を志したのである。没落した高崎藩士の息子内村鑑三は、天敵である薩長閥への批判が峻烈だったし、静岡兵学校や同学問所に集った若者は、俊英ぞろいだった。
ここでしばらく寄り道をすると、静岡に無禄移住した旧幕臣で、先に挙げた人物以外の主だったところは以下の通り(五十音順)。
浅田宗伯……最後の漢方医。天璋院、大奥の侍医。静岡藩奥医師を経、明治十二年より東宮侍医に任ぜられる。西洋医学に対抗した明治保守派の精神的支柱。筆者の母方の祖(拙稿「赤ひげ 浅田宗伯」〔アーツアンドクラフツ刊『辺土歴程』所収〕参照)。
伊庭想太郎……東京農学校校長。日本貯蓄銀行頭取。星亨を刺殺し、獄死。
榎本武揚……幕府の海軍副総裁。函館五稜郭に拠って官軍に抗する。維新後、明治政府の高官となる。
大久保一翁……徳川家斉の小姓。蕃書取調係頭取。勝海舟を見出す。大政奉還を献策。のち東京府知事。
大田黒重五郎……実業家。昭和モダニズムを演出した雑誌「セルパン」のパトロン。音楽評論家の大田黒元雄は息子。
大鳥圭介……榎本武揚と共に官軍と抗戦。のち、明治政府に仕える。
勝安房(海舟)……咸臨丸船長。西郷隆盛と談判して江戸城の明け渡しに尽力。枢密院顧問。
木村熊二……植村正久より受洗。牧師・教育者。明治女学校、小諸義塾を創設。
小林清親……版画家。明治の浮世絵師。
渋沢栄一……大蔵省に出仕、のち第一銀行、王子製紙などを創設。教育・社会事業にも尽力。
田口卯吉……文明史家。主著は『日本開化小史』。『群書類聚』『国史大系』の編纂にも携わる。
中村正直……昌平坂学問所に学び、のちイギリスに留学。教育家・啓蒙思想家。『西国立志編』『自由の理』の訳者。号は敬宇。
西周……沼津兵学校頭取。啓蒙思想家。明六社に参加、近代思想の紹介に努めた。
福地桜痴……本名源一郎。新聞記者・劇作家・小説家。「東京日々新聞」社長兼主筆。
松本良順……西洋医学者。長崎に留学。維新後、陸軍軍医制度の確立に尽力。司馬遼太郎『胡蝶の夢』の主人公。
こうして見ると、政治家や実業家もいるにはいるが、主に文化方面に活路を見出した人たちであることがよく分かる。ことに学問の分野は、そのほとんどが旧幕臣系であるのが大きな特徴で、いつの世でも知的な仕事は、羽振りのよい、得意満面な時代の勝利者の側にではなく、時代の敗者、日陰者の側にあって、彼らが奮起して取り組んだものであることを銘記したい。
『甲斐の落葉』と『見付次第』
さて、問題は、いつ頃から共古が、民俗学や考古学方面の研究に興味を抱いたかである。きっかけは、どうやら明治十一年五月、静岡を訪れた三十二歳年長の松浦武四郎から、考古学の必読書や古物骨董などの話を聞いたことにあったらしい。松浦は、幕末期に蝦夷地、択捉島、樺太を踏査した探検家。北海道の名を与え、アイヌ語地名をもとに国名・郡名を選定したことで名高く、開拓使がアイヌ民族への搾取を温存しているとして批判、職を辞すとともに、従五位の官位を返上した熱血漢。骨董や古銭など古物の蒐集や蔵書でも知られ、共古は彼との交際を通してフィールド・ワークの方法を学び、考古学などへの関心を深めた(共古の筆名は、松浦から教えられた江戸時代の考証家藤貞幹――本居宣長の非難に対して、上田秋成が抗戦、有名な「日の神論争」を招いた『衝口発』の著者――の号「好古」に由来)。
十七年から二十年までは、東京に戻った。人類学の坪井正五郎、鳥居龍蔵を知ったのはこの頃で、二十年には、「粥杖の起り」と「駿河地方祝部土器図説」が「東京人類学会報告」に、「御幣及び削掛の起り」が「東京人類学雑誌」に載る。そして二十三年、同じ「東京人類学雑誌」に発表した「縄文土器はアイヌの遺物ならん」は、のちに坪井正五郎、小金井良精らの間で戦わされた「コロボックル論争」へと発展する。
共古の民俗・考古探訪が本格化するのは、二十年十一月、甲府教会に転じてから。この地での見聞は、のちに『甲斐の落葉』としてまとめられ、柳田國男が炉辺叢書の一冊として、世に紹介している。題名の由来は、冒頭に「この書は、予が明治十九年の冬、甲府へ移り、住居したるより、数年間、見聞したるを、手帖のはしに認め置けるを、写しかへたるまでのものにて、順序、部分の別もなく落葉かき集めたばかり也」と記してある。
私は共古のことを知るずっと以前に、偶然、神田古書街のゾッキ本屋で、有峰書店版の同書(昭和五十年九月刊)を手に入れているが、甲州に独特の丸石型の道祖神や菊池山哉が探訪した奈良田の古俗について書いてある部分に興味を惹かれたことを憶えている。前者については、その後、中沢新一の父親で甲州在の中沢厚が、同書の導きで研究を進め、第一人者になった。
先回りして言うと、折口信夫は「江戸文化」の「山中共古追悼号」に寄せた「山中先生の学問」で、次のように述べている。
牧師として赴任先の風物習慣、考古資料などを記録した『甲斐の落葉』と同系列のものは、他に『見付次第』『吉居雑話』『仙梅日記』『房総雑観』があるが、ここでは静岡県磐田郡見付町の見付教会時代に、「見るにつけ聞にしたがひ見付次第に記しお」いた『見付次第』を見ておこう。短いものは九文字、長くても一三〇二字に過ぎないそれは、一五七の表題のもと、一八項目に分類できる。
一、食べ物、菓子(7)二、生活、および日用品(3)、三、人生儀礼(1)四、年中行事(16)五、祭礼(11)六、信仰(4)七、俗信(5)八、伝説(30)九、石造物・墓石(11)十、考古資料(7)、十一、骨董・趣味(14)十二、里謡・狂歌(5)十三、地名由来(7)十四、方言(5)十五、異変・災害(1)十六、遊び・童謡(9)十七、玩具(7)十八、その他(9)。
見付には古代、遠州の国府、国分寺が置かれていた。左岸は天竜川に面し、江戸時代は東海道の見付宿として栄え、天保年間の絵図によると、本陣二、脇本陣一、旅籠屋五十六、茶屋二十三、古手屋十九、小間物屋十六、荒物屋十五、米屋十一、質屋七、餅屋二十、酒造り七、居酒屋十、医師二など。明治四十三年、共古滞在時は、千六百三十一戸中、商業二百七十戸、工業八十戸、農業九十三戸を数えた。
同書の読みどころは、明治期まだ畑地に埋もれていた遠江国分寺の遺物を紹介したり、見付天神社の裸祭りをはじめとする当地の祭礼や民俗行事、伝説などを細かく書き留めているあたりだろうか。
私は、所属した「白山の会」の長老の鵜飼久市さんが磐田の出身だったこともあって、何度か当地を訪ねているが、本書の翻刻本がなかったので、鵜飼さんに教えられてその知人宅で写本を借り受け、コピーを取らせてもらったことを思い出す。
柳田國男との『石神問答』
『甲斐の落葉』を刊行した柳田國男が、折口信夫よりずっと以前に、共古を日本民俗学の草分け的存在として注目していたことは、「生石伝説」「一目小僧」「毛坊主考」「夜啼石」「片足神」などの著作のうちに、共古の名が登場し、その論説を引用しては常に敬意を表していることで知られる。たとえば、「小さき者の声」所収の「シンガラ考」のはしがきでは、次のように述べている。
日本民俗学の誕生を告げる記念碑的な論考『後狩詞記』の出版は明治四十二年、『遠野物語』の刊行は翌四十三年である。共古の民俗探訪は、それより二十年以上も早く始まっていたから、柳田國男が草分け的存在として敬意を表したのは当然であろう。
ちなみに、柳田と共古の石神の謎をめぐっての往復書簡を中心に編んだ『石神問答』が、その四十二年九月から四十三年四月にかけてであるのは意義深い。柳田三十五歳、共古六十歳、柳田は当代きっての博学で、石造物については並ぶ者のない共古を、「山中大人」と敬いつつ、その博識に耳を傾け続けたのであった。その一端を示せば、次のごとくである。
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