「山懐の女たち」 第3回「山窩との交歓 吉野せい」 正津勉
吉野せい(明治三二・一八八九年~昭和五二・一九七七年)。福島県石城郡小名浜町(以下、現・いわき市)生まれ。少女時代から文学に親しみ、雑誌や新聞に短歌や短編を投稿する。尋常高等小学校高等科を卒業後、独学で小学校准教員検定に合格し、小学校に勤務。当時、平で牧師をしていた山村暮鳥に出会う。また鹿島村の考古学者、八代義定の書斎「静観室」に通い多くの書を読む。
一九二一(大正一〇)年、二二歳、三月、暮鳥に兄事する詩人の三野混沌(本名・吉野義也)と結婚、好間村北好間の菊竹山で一町六反歩を開墾する開拓農民生活に入る。六人の子女を生育。子供たちは冬以外は素足で駆け回る。食事は質素で畑で採れる野菜や鶏の卵など。
七〇(昭和四五)年、七一歳、混沌、死去。交流のあった草野心平に勧められ、再び文筆活動に入る。串田孫一編集の「アルプ」に送稿。
七四年一一月、一七篇の短編を収める『洟をたらした神』を彌生書房より刊行。一躍、脚光を浴び、時の人となる。串田が「刃毀れなどどこにもない斧で一度ですぱっと木を割ったような狂いのない切れ味」と評した文章。それがどんなものか。最初の一篇「春」の冒頭から。
「春ときくだけで、すぐ明るい軽いうす桃色を連想するのは、閉ざされた長い冬の間のくすぶった灰色に飽き飽きして、のどにつまった重い空気をどっと吐き出してほっと目をひらく、すぐにとび込んで欲しい反射の色です」
春の来る歓び! それを「のどにつまった重い空気をどっと吐き出してほっと目をひらく」だとは、そこにはひたすら耐える長く苦しい冬があるがゆえだ。当方、雪国は奥越大野の出身。そのさき児童記録『雪国の暮らし』(ほるぷ出版 一九七六年)を上梓している。そこでこんなに呻いたものである。
「雪は雪国の人々におおいかぶさるように降り、その暮らしに重くのしかかるようにつもります。/雪国の人々はいいます。『吹雪にぶたれるのは親父にバイタ(板キレ)でぶたれるのより痛い』と」
三八豪雪(昭和三八年)、思い出す。いやあの雪、どくしょな(ひどい)、あばさけた(たわけた)、雪やったら! 福井県下、死者三一名。大野では二九五センチの積雪。家の出入りは二階の窓から。学校閉鎖。わたしら高校生も毎日スコップ一本の雪除隊つとめ。雪はかんからかんに(かたまりきって)凍りついたようなあんばい。うんとこさと雪に埋まった鉄道線路(京福電車、現在、勝山大野間、廃線)の雪かきに精出したものだ。
それだけにそうである、ほんともう春の到来の喜ばしさったら、などとはもうおこう。
せいは、混沌と一緒にずっと農業に励む。夫婦はくたくたに働きながら、文学と文学仲間を忘れない。三作目、「かなしいやつ」では、農民詩人猪狩満直との温かい交流を描く。四作目、表題作では、六つの男の子ノボルが貧乏で買ってもらえないヨーヨーを手作りする。さらに愛児の死を綴った「梨花」。憎むべき野菜どろぼうなのだが共感やまない「いもどろぼう」。息子の駐屯地を訪ねる旅に戦時中の世相を活写する「鉛の旅」……。
*
そのどれもが胸に深く突き刺さってやまない。だがあらかじめいっておこう。そこにはどうにも看過できない問題がひそんでいると。どういうことであるのか。それはみなさんが手元にする文庫版『洟をたらした神』(中公、文春文庫)をめぐる欠陥といったらいいか。そこでの収録は一六篇であること(前記の彌生書房版単行本は一七篇だ)、じつはもっとも大切とおぼしくある、なぜなのか一篇が削除されている。そのことをいうのである。しかもなんと両文庫ともにその経緯について一言もないという。
いったいどういう事情があってのことなのか。じつはその一篇とは既刊本二作目「飛ばされた紙幣」なのだけど。そこにはよくわからない経緯があったという。
いやいかように説明したらいいものやら。いつかネット「磐城蘭土紀行」に「草野心平と吉野せい」と題する投稿に出会ったものだ。これなどがまあ理解のたしになろうか。ここに該当の箇所を抄録しよう。
*
というそれはどういう「事件」であるのだろう。「飛ばされた紙幣」。じつはそれはこの作が山窩を正面から描いた一事に発しているのである。それゆえに「取除いて」となったしだい。しかしなんでそんな「土地で問題になり、名誉キ損だと言はれたりして」とかいろいろあったから、とはいえそんないとも簡単に「削除」していいものだろうか。版元にしても、草野心平、賞の委員、関係者にしても、いやもっと作者せい自身にはなおさら(もっときつくいえば「普及版」などという頬被りよろしい誤魔化しをもってなした)、このことはどうにも由々しき事態ではないだろうか。
などとはさて一拍おいてみるとして。ここでちょっと山窩について私見におよぶとにしよう。それはそんな指弾されるようなものか。
山窩。一所不住、一畝不耕。山野河川で天幕生活。箕作りの竹細工や川魚漁を生業とし、昭和三〇年代、終わり頃に列島から忽然と消えた幻の漂泊の民。ところでいま山窩などというと眉唾でしかないと一笑されるのが多勢であるだろう。だがほんとうに山窩はいたのである。つい最近まで都下でもごくふつうに。ついてはここで引用しないが、白洲正子「農村の生活」(『鶴川日記』文化出版局 一九七九年)、これをぜひ一読していただきたい。そうしてしっかりと驚愕されたくある。たとえば日本のどこにも山窩についての文献ときたら数少なくある(参照・『サンカ 幻の漂泊民を探して』道の手帖 河出書房新社 二〇〇五年)。
そこでこの件をめぐって、ひとつだけ挙げるとしょう。それは山窩について、ひときわつよく思いを深くやまない、あのつげ義春である。つげの多摩川の河原で拾った石を多摩川の河原で売る破天荒な傑作「無能の人」をみよう。
ここから先は
¥ 300
やまかわうみwebに、サポートお願いします! いただいたサポートはサイトの運営費に使わせていただきます!