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東北考(2) 「屈折像の満州シベリア 香月泰男と石原吉郎」 

東北、サハリン、満州、シベリア、イサーン(東北タイ)…。アジア各地に霊魂が宿る場としての「東北」がある。文学、芸術、民俗を論じ、霊性を幻視する間-東北論! 評論家・民俗研究者の金子遊による新連載です。

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 明け方のことだ。目がさめて起きあがったとき吐息が白かった。うす汚れた寝台車の窓ガラスには霜がおりていて、外をのぞき見ると弱々しい光の太陽がのぼっていた。どこまでいっても、低木や枯れ木のはえた乾燥した平坦な大地がつづいてる。雪が積もっているのか霜柱が立っているのか、ときどき地面に白いものが混じって見えた。どこへいっても住宅、道路、田畑など人のにおいがする列島からきた人間には、初冬の広漠とした大陸の光景はさびしい心もとないものに感じられた。
 十数年前に、わたしが旧満州の丹東をおとずれたときの記憶である。北京から夕方の寝台列車にのって瀋陽(旧奉天)を経由し、旧満州の丹東(旧安東)についたのは翌日のことだった。食堂車で知りあった漢人と意気投合し、寝台車で白酒をふるまってもらったので丹東駅におりたときにはめまいがしていた。しばらく北京に滞在していたためか、丹東はまだ建設途上で随所にでこぼこの地肌がのぞいており、寒くて土ぼこりの多い異境の地方都市という印象だった。この街を高名にしているのは、北京から旧満州のさまざまな町をとおって北朝鮮の平壌までを結ぶ国際列車の存在である。
 宿舎に荷物をおいて、北朝鮮との国境線になっている鴨緑江まで歩いた。かつての五族協和のスローガンではないが、丹東には漢人のほかに満州族、朝鮮族、回族などの多民族が暮らしており、街にはハングルで書かれた看板が多く見られる。川辺までくると、広々とした鴨緑江の流れをのぞんで対岸は北朝鮮の国土である。川岸はアスファルト舗装などのインフラが整備されていて、多くの観光客でにぎわっていた。それとは対照的に、対岸の煙突や建物は古びた無機質なものに見えた。鴨緑江は丹東から先の河口で川幅を広げ、そのまま西朝鮮湾にそそぐ。その海に面する遼東半島の先には、満州国の最大の貿易港だった大連がある。
 北朝鮮側と丹東の街は川をはさんで中朝友誼橋で結ばれており、コンテナを運んでいく列車の姿が見えた。その立派な橋の横に、この町が日本軍に占領されていた時代の名残りのように、壊された橋の橋桁だけが遺構として残されている。戦前から戦時中にかけて朝鮮半島は日本の統治下にあったので、海路で大連から満州に入るルートだけでなく、釜山から陸路で満州へ北上するルートも一般的だった。実際に太平洋戦争の末期には、釜山から丹東や瀋陽を経由して、北京やモスクワへとつなぐ縦貫鉄道も計画されていた。ところが戦後の歴史においては、南北朝鮮は三十八度線で分断され、北朝鮮と中国のあいだは経済制裁によって人と物流のやりとりが制限されている。現代の日本列島、朝鮮半島、中国東北部のあいだの非連続的な交通網のせいで、かつての植民地における往来のダイナミズムは想像しにくくなっている。
 山口県の下関にほど近い三隅町に生まれ育った画家の香月泰男は、一九四三年一月に三十二歳で軍隊に召集されて、三カ月の訓練をうけて満州に送られた。このとき、下関から釜山へと航行し、朝鮮半島を縦断してこの安東(現丹東)の町をとおった。さらに奉天からハルビンへと北上して、満州とシベリアの国境に近いハイラル地区へ入った。香月はその地で部隊の営繕係をして約二年間をすごした。召集される前にすでに画家として頭角をあらわしていた彼は、従軍生活においても積極的に自分の絵画のモチーフをさがしもとめ、油絵だけでも月に一点以上のペースで制作した。
 ところが、日本の敗戦が濃厚になってきた一九四五年八月九日、宣戦布告したソビエト軍が国境線をこえて、満州へ怒濤のように進軍してきた。香月泰男たちの部隊千人は奉天の北西まで引き、さらに安東から朝鮮領内まで南下してそこで新たな補給廠をつくれという命令がくだった。八月十四日の夜は奉天の小学校校舎に宿泊し、翌十五日には国境沿いの安東や朝鮮へむかう軍用貨車にのっていた。香月が終戦のしらせをきいたのは、その貨車の上でのことだった。

戦争は終った。日本に帰ってまた絵筆をとることができる。それだけしか考えなかった。その日奉天をたった列車は、一路南下して、二日後に鴨緑江の沿岸、安東まできた。道々、避難民を満載した貨車に幾度も出会った。無蓋の貨車にイワシのカンヅメのようにギッシリ詰め込まれ、上はシートでおおわれていた。満州も八月は暑い。シートの中は蒸し風呂のようになっていたのにちがいない。シートを持ちあげて外をのぞく顔は、どれもこれも、疲労でやつれ、不安と恐怖でひしがれていた。まるで徒刑場に運ばれる人たちのように、一様におしだまって、うつろな目を外に向けていた。ときどき幾つかの貨車の中からは、火のついたような赤ん坊の泣き声がきこえてきた。(『私のシベリヤ』香月泰男著、五一から五二頁)

 その安東で香月泰男たちは処遇が決まるまでの一ヵ月ほどをすごした。それまで満州において主人然としてふるまっていた日本人の避難民たちは、満州人におそわれる恐怖におびえていた。それが多民族の社会というものである。極度の混乱のなかで命だけは助かりたい一心で、子どもすら捨てていった日本人たちもいた。だが、朝鮮側へわたる鴨緑江の国境はすでにソ連軍によって管理され、国境をこえる許可は簡単にでない。敗戦時に満州にいたとされる日本軍約六十六万人の兵隊は武装解除となり、満州で現地召集された兵は除隊になった。この敗戦直後の安東における混乱と日本人たちの不安をモチーフにして、香月は『避難民』(一九六〇年)という油彩画を描いている。

『避難民』香月泰男
画像は「やまぐちバーチャルアートミュージアム」より引用
https://vam-yamaguchi.com/item1_15/

 この絵は、香月泰男が奉天から安東へむけて、軍用貨車で移動する途中に見た、無蓋貨車のなかで不安に怖れおののく人たちの姿を描いたものだ。兵隊も一般市民も、老いも若きも、生き残って祖国にたどり着きたいがために、たがいに争って貨車に乗りこもうとする。沿線には貨車に乗ることができず、とぼとぼと歩く家族連れの姿もあっただろう。親を見失い、あるいは置き去りにされて、泣き疲れて途方に暮れる子どもたちの姿もあったにちがいない。無力になった香月たち兵隊は、そのような光景を見てどうすることもできなかった。貨車のなかから外を凝視する顔には同じように暗雲がたれこめ、いかなる表情も見ることができない。ある者はこぶしを強くにぎりしめ、ある者は口を手でおおい、ある者は祈るように両手を強くにぎりあわせている。画家はこの絵であつかった題材について、次のような解説を書いている。

鰯のかんづめのようにぎっしり詰めこまれ、八月の太陽をさけるために覆われたシートをもちあげて、外をのぞく顔、顔。蒸し風呂のような中のどの顔も、不安と恐怖と疲労で、刑場に運ばれる囚人のようにおし黙って、うつろな目を向けていた。時には貨車の中から、火のついたように泣き叫ぶ赤ん坊の声が聞こえた。一切の財産を奪われ、希望を失い、現地人の強奪におののき、あさましさをむき出しにした人たちの貨車と、無力の兵となった私たちの貨車が、行方もわからずに、すれ違っていく。(『香月泰男 シベリア画文集』山口県立美術館監修、三八頁)

 この『避難民』という絵画は、香月泰男がシベリア抑留の前に満州で素描した光景がもとになっており、「シベリヤ・シリーズ」全体を特徴づける人びとの「顔」が描かれている。この顔が香月の絵画に登場したのは、前年の『北へ西へ』(一九五九年)が最初だとされる。一九四五年九月にスターリンは極秘文書で、シベリアへ送る日本軍の軍事捕虜約五十万人を選別するように指示した。九月から日本人捕虜の輸送がはじまり、シベリアから中央アジアにわたる広大な地域の監獄や収容所へ、抑留者たちが送りこまれた。ソ連兵に監視された鉄格子の貨車は、香月たち虜囚をすし詰めにした状態で奉天から北へ進み、ハルビンをすぎて黒河でアムール川を船でわたった。対岸のソビエト側の町ブラコベシチェンスクからまた木造貨車で移送された。
 香月泰男の絵画『北へ西へ』では、鉄格子の奥のうす闇に虜囚たちの「顔」がうっすらと浮かぶ。異境の地で帰国できるかもしれないという望みを断たれ、あまりに大きい絶望のために無表情になってしまったのか。「眼窩がくぼみ、ほおがそげた顔貌は、ノミで荒々しく削られた木彫仏をほうふつとさせるが、それは一九五六(昭和三十一)年、香月が初めてヨーロッパに旅行した際に見たロマネスク寺院のキリスト像に影響を受けたもの」である(『香月泰男 シベリア画文集』四七頁)。本人の言では、もっとも尊敬する画家のひとりである雪舟の『慧可断臂図』に教えられたともいう。いずれにしても「シベリヤ・シリーズ」に登場する顔は人間らしい表情をうしない、個性を奪われたものとして描かれている。現実には人間の顔は千差万別なものだが、香月が兵隊や虜囚の本質に迫るために、それらの「顔」は写実的なリアリズムから乖離したイメージでとらえられたのだ。木彫仏、キリスト像、雪舟の水墨画など西洋とアジアが折衷しているところには、満州の多民族的な風土の影響があるのかもしれない。
 さて、香月泰男たちの部隊をのせた貨車は西へ西へと走り、バイカル湖をすぎ、エニセイ川をわたった。その三千キロにわたる移動の際、人びとは寒さと疲れで外の景色を見る余裕もなかった。ところが、香月だけは湿地帯や十月ですでに凍りついたツンドラ地帯を見ながら、絵になる題材をさがして時間をすごした。シラーという町でおろされ、十一月下旬のマイナス三十度のなかをトラックで八十キロ移動し、香月の所属する中隊二五〇名は山中のセーヤ収容所に入所した。それから春までの半年がもっとも過酷な時期だった。香月たち日本人捕虜は、その地で火力発電所でつかう薪をつくるための森林伐採の強制労働に従事した。シベリアの極寒の気候、過酷な重労働、食事は紅いコーリャンのおかゆだけという環境のなかで人びとは栄養失調になり、過労もあって一月から三月のあいだに弱い者から二十数名がばたばたと死んでいった。

セーヤの収容所では、毛布が柩のかわりであった。死者が出ると、それを毛布にくるんで通夜をした。はげしい飢えの果てに死んだ者へ、コーリャンのにぎり飯をそなえるのが、せめての慰みであったが、それも夜中に盗まれる始末であった。
凍てつく雪の夜、軍隊毛布につつまれた戦友の霊は、仲間に別離を告げながら、故郷の空へ飛び去る。そして、あとに残った者には、先も知れぬ苦しみが続く。いっそ霊魂と化して帰国したい。現身の苦悩から解放された死者を、どれほど羨ましく思ったことだろう。(『シベリヤ画集』香月泰男著、七〇頁)

 右の解説は、香月泰男が『雪』(一九六三年)という油彩画のために書いたものだ。画面の中央に、毛布にくるまれたサナギのような何かが置かれている。その左側には、安らかともいえる無表情をした男の「顔」と、そろえられた五本の指がうっすらと闇のなかに浮かぶ。画面の下部に、四人の男たちの「顔」とその前方にかかげられた両手が描かれている。口を半開きにしたその表情には、嘆きなのか悲しみなのか何らかの感情が読みとれる。『雪』という作品が何を描いたものなのか、一見しただけではにわかに判断できない。香月はシリーズの原型となるモチーフを「葬・月・憩・薬・飛・風・雨・伐・陽・朝・鋸・道」という十二の漢字にたくして考えていた。『雪』は「葬」をあつかった作品であろうが、具体的な情景の上に虜囚たちの心象風景が重ねられ、より象徴的なイメージへと結晶化されることになった。それは鑑賞する者によって、さまざまに感じとることができるイメージにまで高められている。
 絵画が成立した背景をみると、香月泰男が『雪』に描いたのは、収容所で死んだ戦友の横たえられた遺体とその霊魂、お通夜でそれを見守る生存者たちの姿であった。とはいえ、この作品が優れているのは、そのモチーフの背後にあるシベリアでの壮絶な記憶が主題となっているからではない。同じような経験を何十万人もの抑留者たちが、敗戦後の満州やシベリアで経験したが、香月の絵画のような構図やマチエールで描いたのは彼ひとりだった。また「シベリヤ・シリーズ」にはオブジェを利用して描かれた作品もある。「まず体験の核となる記憶の心象をオブジェに具体化する。次いで、それから派生するイメージを画面に定着する」ためだ(『『香月泰男 シベリア画文集』二一頁)。一度、オブジェという物体を経由してイメージを具現化しているところが興味ぶかい。最終的に絵画として完成されるのは、シベリアの光景や記憶から生まれたものだが、単に写実的に再現されたものではなく、いわば香月というレンズによって屈折された像としてのシベリアなのである。
 その最たるものが、香月泰男がくり返し描いた「顔」であろう。収容所で死んだ者はみな骨と皮ばかりになっていた。香月はせめてもの慰めにと思い、軍用ハガキに死顔をスケッチした。そして戦友が死ぬたびに、死顔を写生することをつづけた。軍医は遺骨を残しておいてやろうと、小指の第一関節を切りとって遺骨箱に入れたという。しかしスケッチも遺骨箱もソ連兵に見つかって燃やされてしまい、一枚も日本に持ちかえることはできなかった。「私がようやく発見することのできた〝私の顔〟は、あの死者たちの顔に他ならない」と香月はいう。肉が落ち、目がくぼみ、ほお骨が突きだした死者たちの顔は、いったん木彫のような物体性を経由することで彼の絵画に定着され、画家によって悲しみのなかにも美を見いだされたのである。

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 画家の香月泰男より四歳年下で、一九一五年生まれの石原吉郎もまた、同じ朝鮮半島経由の陸路で満州に入った。一九四一年七月から八月にかけてのことで、香月よりも二年ほど早い到着だった。しかし、通常の召集兵であった香月は四年半でシベリアから帰国できたが、石原は八年にわたって抑留されることになった。さらに石原はソ連で戦争犯罪人のあつかいを受けたため、日本兵だけでなく、さまざまな民族でごった返す強制収容所に入れられることになった。石原は伊豆半島の土肥の出身で、一九三九年に徴兵になったときは静岡市の歩兵連隊に入隊した。東京外国語学校(現東京外国語大学)を卒業して大阪ガスに入社した翌年のことで、まだ二十四歳の若者だった。それから一九五三年に三十八歳で帰国するまで、じつに十四年もの年月を兵役とシベリア抑留のために費やすことになった。

 私が外国語というものに興味を持ち、ついにこれを自分のSpecialitätとして選んだという〈宿命〉の中には、現在なお克服しきれずに悩んでいる自分自身の性格的なマイナスがはっきり反映しているように思う。(……)私の記憶にまだ残っているのは私がまだ十六歳の頃、何とかしてギリシャ語とラテン語を勉強したいと思ったことである。その時ラテン語やギリシャ語は、英語しか知らない同級生に対する一種の優越を意味していた。(『望郷と海』石原吉郎著、ちくま文庫、二三七頁)

 石原吉郎は語学の才能に恵まれていた。ここで「宿命」といっているのは、その才能が後年、満州やシベリアへ送られる運命を引き寄せたからに他ならないし、戦後はその語学力で翻訳などの仕事をして暮らしたからである。外国語学校をでて英語、ドイツ語、フランス語が使いこなせた石原は、入隊してほどなく大阪の連隊内にもうけられた「大阪露語教育隊」に分遣される。そこで八カ月間みっちりとロシア語をたたきこまれ、東京の高等科でさらに八カ月のロシア語教育をうけた。軍隊という特殊な環境での語学教育は効率がよかったという。日曜以外は缶詰状態であり、昼は当然のことながら夜の消灯後も自習を強制され、下士官がそれを監視するので居眠りもできない。それに「教材以外の書物は許可されないので、退屈しのぎにも、辞書と教材をながめるしかない」。何よりも語学の習得は命令なので、命令には従うしかなかった。     
 このように石原吉郎はロシア語の読み書きにとどまらず、任務に必要なリスニングや会話能力をも習得した上で、関東軍司令部の対ソ情報要員として特務機関、つまりはスパイ活動をするために満州へ送られた。英語、ドイツ語、フランス語、エスペラント語に加えて、ロシア語まで使えたのだから現代でいえばマルチリンガルな人間だった。そのように多言語を使用する環境が石原の詩作にどのような影響を与えたのか、それを指摘する人はあまりいない。戦前のインテリ青年の外国語への熱意と、その能力の高さには目をみはるべきものがある。たとえば、満州時代とシベリア抑留時代とおして石原の無二の友人となった、鹿野武一との出会いがいい例である。その友情は軍隊のロシア語教育の高等科で、石原と鹿野のふたりが残留の当番をしていたときにかわした外国語での会話からはじまった。

午後になって、私たちがストーブの傍で所在のない時間をすごしていたとき、急に思いついたように口笛を吹きはじめた。私の知っているメロディであった。Espero(希望)という題の、エスペランチストの集会では必らず歌われる曲である。私は学生のとき、エスペラントをやったことがあるので、大へんなじみの深い曲であった。珍らしく思って、こころみに私がたずねると、即座にĈu vi parodas Esperanton(君はエスペラントを話すか)という問いがはね返ってきた。Jes(イエス)という答えを待ちかねたように、彼はつぎつぎとエスペラントで話かけて来た。余り話しなれていないらしい口調だったが、正確な表現で、私にはほとんど理解できた。(「教会と軍隊と私」『断念の海から』石原吉郎著、六三―六四頁)

 石原吉郎も鹿野武一も、情報機関に登用されるだけの語学力の持ち主であったことがよくわかる。特に「軍隊のような環境や、抑留後のシベリアでは、さしさわりのある会話は、結局はエスペラント語に頼ることになった」と石原が書いているところが目を引く。満州やシベリアで、石原が日常会話において数カ国語をあやつっていた証拠であろう。さて、石原もまた香月泰男のように釜山まで海をわたり、列車でソウルと平壌を通過し、国境をこえて満州側の安東に入ったのだと考えられる。それから奉天、新京と北上してハルビンに到着したのが一九四一年の八月下旬のことだった。そこから西へ内陸に入れば、香月泰男が駐屯していたハイラルの地である。その年の十二月には、日本海軍がハワイで真珠湾攻撃を仕かけて太平洋戦争に投入している。
 石原吉郎が、異境の地ハルビンを中心にすごした四年間の生活はどのようなものだったのか。わたしたちは長らく石原自身による「自筆年譜」やエッセイなどからうかがい知ることしかできなかった。ところが近年になって、満州やシベリアで過ごした同時代人の資料の研究が進み、多田茂治の著書『石原吉郎「昭和」の旅』が示すように伝記的な事柄についても明らかになってきた。当時のハルビンは満州族、日本人、白系ロシア人などが混成して暮らす、人口七十五万人のコスモポリタンな都市だった。石原がつとめていた満州電々調査局は、市内の三階建てのマンションを接収して社屋にしていた。それは民間会社に偽装した関東軍の特殊通信情報隊であり、ソ連の無電傍受を任務とする情報機関だった。高速無線電信によってモスクワへ集中する報告や命令をロシア語の文字におこして、それらに眼をとおし、重要だと思われる情報を日本語に翻訳して上司に提出するのが役目であった。
 そのような軍の仕事をこなしながらも、石原吉郎は二十代後半のハルビン時代をなかなか活動的にすごしたようだ。聖書、キルケゴール、ドストエフスキーなどを熱心に読み、仲間たちとガリ版刷りの冊子を発行して、そこへ自分の詩を発表した。あるいは石原が呼びかけて週一回みなが集まり、万葉集の輪読会を開いた。彼はポータブルの蓄音機を所有しており、ロシア民謡の「トロイカ」などを愛唱していたという。真冬になれば零下三〇度まで下がるその内陸の地が、彼の青春期をすごした場所だった。このハルビンの特務機関で働いていた人たちは石原を含めてインテリばかりで、軍隊といっても戦闘ひとつ見たことのない面々だった。
 萩原朔太郎の『月に吠える』は一九一七年に刊行された初期詩集だが、石原はハルビンではじめてこの詩集と出会い、「それは私が知っていたそれまでのどの詩ともちがっていた。なによりも驚かされたのは、それらの詩がイメージによって描かれていたことである」とそのときの衝撃を書いている(「私の詩歴」『断念の海から』一八頁)。石原の詩がもつ屈折したイメージを、満州における多民族的な精神風土やシベリアの光景との関連で考えてみたいわたしにとって、このことは興味ぶかく思える。たとえば『月に吠える』の冒頭におかれた「地面の底の病気の顔」はこんなふうにはじまる。

  地面の底に顔があらはれ、
  さみしい病人の顔があらはれ。

  地面の底のくらやみに、
  うらうら草の茎が萌えそめ、
  鼠の巣が萌えそめ、
  巣にこんがらかつてゐる、
  かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、

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