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「鎌倉できるだけ無銭暮らし」(4)和賀正樹

 野島海岸賛江
 毎年5月、大潮の日に金沢八景行きの京急バスで朝比奈峠を越えて――鎌倉霊園のあたりで目を伏せて――野島海岸にいく。首都圏では数少ない潮干狩りが無料の浜だ。
 年によって違うが、ざくざくとアサリがとれる。砂を吐かせるのがひと手間だが、バカガイもいる(バカの貝柱が寿司ネタの靑柳ですね)。浅瀬をあるくと、素足に稚貝がかちかちと当たる。
 ――循環する自然。豊饒を感じるときだ。
 かつて、千葉稲毛の浜辺も生き物であふれていたと、椎名誠がエッセイに書いている。紀南の古座川はアユの宝庫で、ダムが出来る前は、川の真ん中に棒を立てても倒れない。アユがうじゃうじゃいたから。そう地元の古老は回顧する。
 横浜市の海岸線の総延長は140キロ。そのうち自然のまま残っているのは野島海岸の500メートルだけ。「海の公園」の浜は人工的に造成。あとはすべて埋め立てられた。川崎市に至っては1メートルもない。
 司馬遼太郎は、「公共の海岸を埋め立てることを法律で禁止してはどうか」と提案した。
 もう十分に日本の海は埋め立てられた。巨大資本の意向のままに、一時の行政の判断で、太古から受け継いできた海岸をなくしていいものだろうか。そう司馬は言いたかったのだ。
 逗子マリーナの埋め立て以前、飯島崎の一帯は浜と磯がいりまじり、200メートル先まで遠浅。シッタカ、アワビ、ナマコ、タコ、ギンポ、ワカメがよく捕れた。子どもたちは、イソギンチャクやヒトデ、ウミウシに歓声をあげただろう。
 補償金を受け取った小坪の漁師たちも、後悔しているのではないか。自明の理だが、ひとたび海を埋め立てたら、もう復元はできない。数百年にわたり、いや、ほぼ永久に魚介、海藻が採れる食糧庫たる海を、行政と同じく一時の判断、ゼニカネで手放してしまった。
 海岸や河川は漁業関係者だけのものではない。社会全体の公共財・コモンズだ。列島に住む人びと全員の財産なのだが・・・。
 野島海岸に立つたびに、喪われた汀、食卓をにぎわした無料の海の幸を想う。

 ー一国民の最も貴重な産物は、よく耕された心田である

 札幌農学校の教員クラークの言葉だ。
 ――愛国者、愛国心とは、なにか。イデオロギーや観念ではない。わたしは国土保全に務める人びと、その心根だと答えたい。
 
 なにが一級河川なのか
 野田知佑さんと四万十川の口屋内くちやないでカヌーを漕いだことがある。
 <日本最後の清流・四万十川>。この謳い文句ほど、哀しいものはない。日本列島に清流がひとつしかないというのだ。一級河川13994の本流にダムがないのは四万十川だけ。
 本流にダムはあるが、前出の古座川も四万十川にひけをとらない清流だ。沈下橋から川底の小豆大の小石がくっきり見える。司馬遼太郎が生涯にただ一軒の別荘を古座川を望む一雨いちぶり――古座川町の字。なんて典雅な地名だろう――に建てた。ダムが出来る前の透明度はこんなもんではなかったのう、と古老は残念そうだった。
 「一級河川という名称は、情けない。国が指定・管理するのが一級。県の指定が二級河川。市町村によるものが準用河川。その他は普通河川。市民に一級も二級もないように、川に上下をつけないでほしい。等級を感じさせない名称に変更できないものか。

 野道の快楽
 北海道の作家・小桧山博は、旅先で裸足であるくことを楽しみとしていた。米国の首都、ホワイトハウス前でもそうした。靴を脱いで、地面を味わうことで、この地を実感していた。
 奈良市在住の民俗学者の野本寛一さんは、「土のいい道があるんですよ」と顔をほころばせていた。野道が奈良を終生の地と定める決め手のひとつになったという。
 東大寺の裏から正倉院を結ぶ小道もいい。未舗装。ひょっとすると、奈良時代と変わらない道ではないかと思わせる。
 土の道ではないが、那覇の壺屋にも石垣を縫って蛇行する小道がある。那覇に寄るたび、用もないのに何往復かしてみる。沖映通りの「泊まれる居酒屋」、ゲストハウスの月光荘(ちいさな図書棚あり)に宿をとり、牧志の市場から、よへな種苗店(第1回に登場)へ。壺屋の路地で折り返し、桜坂劇場で見逃した名画、ドキュメンタリーを観る。これが、おきまりの徘徊コースです。


壺屋(那覇市)の路地
路地の奥にある月光荘

 皇居の濠端にも野道を
 鎌倉の各所の路地で感心するのは、粗い目のコンクリート板を飛び石のように敷いていることだ。市役所のファインプレー。地面が見える。アスファルトで塗り固めていない。自転車やバイクの速度を落とさせ、歩行者のよきアクセントになり、歩くのがたのしくなる。田村隆一が『僕が愛した路地』(かまくら春秋社)で「街を人体にたとえるなら、路地は静脈」といっているのもうなづける。動脈ばかりでは、生きていけない。
 福岡にも、ばりよか小道があっと。天神から唐人町につづく目抜き通りの明治通。赤坂西の交差点から下ると、福岡城の濠。その外周が土の道。水辺の2キロ弱。ハスを愛でながら歩けるようになっている。
 皇居の近くにも土の道が残っている。英国大使館の正門前の直線300メートル。内濠通と大使館の間に、人が行き交えるほどの砂利道がある。
 皇居の外周路はアスファルト舗装。市民ランナーの走路になっている。
 そこで提案。千鳥ヶ淵、半蔵濠、桜田濠と半円につないで、外周路の斜面下に歩行者専用の小道を設けられないか。水際に幅2メートルの野道をつくる。イギリスではどこにいっても快適なフットパスがある。江戸城にも福岡城のような快適な水辺の野道があっていい。

福岡城の土の道

 アヒルの散歩でエノキを知る
 さて、拾う生活である。
 二階堂の永福寺ようふくじ裏の山道で、アヒルを散歩させている高齢の男性に出会った。
 アヒルはミミズが大好きだそうで、道ばたの腐葉土をくちばしで掘っては食べている。
「ほれ、このエノキの木の下に・・・」
 杖で葉っぱをかき分ける。コショウ粒のような赤黒い実があちこちに落ちていた。エノキの実もアヒルの好物だそうだ。
 試しに口に入れてみると、甘みが感じられる。エノキの実も食べられる! わたしにとって、新しい天体の発見だ。
 野田知佑さんは、かつて都内中野区のマンションの浴室で、アヒルを飼っていたなあ。
 真っ白く、つややかな羽根。けっして攻撃向きではない黄色のくちばし。丸みを帯びた胴体。つぶらなひとみ。見ていると、幸せな気持ちになってくる。
「チックとタックと2羽飼っていましてね」と男性。
「よく卵を産んでくれて、これがまたおいしいんですよ」
 チックが先に他界し、残されたタックは25歳で高齢。70坪の敷地に金鵄やニワトリなどを飼っていたという。タックは、犬や猫はへっちゃら。ただ、アライグマが出没するので、古い日本家屋の高い縁の下に囲いをつくって、夜はそこですごすという。
 
 落ちている果実たち
 市役所近くの路地で、見かけない楕円形の実を拾う。薄緑色。ミニトマトほどの大きさ。図鑑でしらべると、フェイジョアだった。30年ほど前に、キーウイとともに流行したらしい。園芸書では、熟して自然と落ちたものを食用にするとある。
 かすかな甘味。さくさくした歯ざわりのあとに、ねっとりとした舌ざわり。バナナとアボガドを合わせたような食味が一世を風靡した。いまではスーパーマーケットや青果店でお目にかかることもすくない。いちどきに人気が盛り上がり、急反転、衰えた。くだもの界のナタデココ、タピオカだろうか。市役所に寄るたびに、路上に転がるフェイジョアを拾って帰ることにした。
 初夏は、ヤマモモの出番だ。果実は直径2センチほどで、見かけは微細な凹凸のあるユスラウメにちかく、表面は突起が密集。剛健なたちで刈りこみや大気汚染に耐え、街路樹、公園樹といたるところ用いられている。鎌倉では海浜公園の街路に植えられ、盛夏には歩道が熟した果実で赤黒く染まる。痛みやすいので、その場で生食するのがいい。傘をひろげ、揺さぶりたい気もちを押さえて、路上にちらばる実を拾う。ありがたい無料のジューススタンド。ジャム、果実酒、砂糖漬けにもする。
 冬になると、イヌマキの実が熟する。緑と紅の珠がひとつずつついている。おいしいのは紅のほう。渋みがあるが、淡い上品な甘味。ゼリーのような舌ざわり。先端の緑の珠には毒(イヌマキラクトン)があり、過食すると下痢・嘔吐するらしい。外房の民家の防風林としてよく植えられている。円覚寺の門前に大木があり、熟して路上に落ちてくるのを待っている。

イヌマキの実

 漂着物(よりもの)をひろう
 冬の季節風ナライ(北風)が吹くと翌日、漂流物が期待できる。由比ガ浜、材木座に流れ着く廃物をいそいそとひろう。台風来襲時も欠かせない。宋船が出入りした和賀江島では、古陶の破片が見つかるらしい。
 晩秋に吹く西風もチャンスだ。伊豆半島の天城山に雲がかかっているあいだは大丈夫。だが晴れ渡り富士山が姿をあらわすと、強い西風が吹き出す。
 風だけではない。海流も影響する。「海流が強くなる六月から九月頃が漂流物のシーズン」だと、藤沢片瀬の漁師・小菅文雄の『湘南漁師物語』(港の人)に。
 なにせ、できるだけ無銭くらしだ。肥料は一切買わない。ホンダワラ、アラメ、ヒロメを拾っては、畑にすき込む。
 化学肥料がない時代、冬になると、百姓は競って「藻上げ」といい、浜辺に海藻を集めにいったと聞く。砂地でイモをつくるときなど絶大な効果があがった。
 海藻以外の狙い目は漁網、ロープ、板切れ、角材など。漁網にエンドウやキュウリのつるを這わせる。ロープは山道の危険個所に張る。板切れ、角材は、いずれ建てる予定の農具小屋の資材にとっておく。ブドウは石灰質の土壌でよく育つ。カキの殻は、ブドウの根もとに置く。
 前出書によると、葉山の海辺に住む鈴木三郎助のもとに、相模湾中の漁師は干したアラメやカジメを船で売りにいったという。
 カジメなどの海藻を焼くと、消毒薬ヨードチンキの主原料の沃土灰ができる。
 鈴木は、日露戦争による戦傷者の急増=需要増を追い風に、カジメ焼き(日本各地でおこなわれていた)で財をなし、ヨードを起点に化学調味料・味の素の製造・創業に乗り出していく。
 由比ガ浜では、町内会、労組、有志、企業などが主催して、春、秋に地引網がひかれる。アジ、ダツ、タチウオは参加者が持ち帰える。
 すてられたウツボ、ゴンズイなど外道をひろう。競争相手はトンビ、カラス。
 ウツボは背開きにおろし干物にする。熊野では、ウツボのたたきが祭りや祝い事に欠かせない。良質のタンパク質、ミネラル、コラーゲンに富み、滋養強壮によし。妊婦の産後にも好んでたべられている。本州最南端・串本町の伊佐次屋の「うつぼ小明石煮」は飴煮。こりこりした歯ごたえ。適度な脂ののり。酒のアテに絶好。金銭が発生するが、仕方なくときどき通販で取り寄せる。
 ゴンズイは胸びれ、背びれに毒ばりがある。エイやゴンズイが網にかかかると、漁師は「触るな。危ない」とふれてまわる。くりかえしになるが捨てるのはもったいない。上品な白身で味噌汁、フライにする。
 寄り木で家が建つこともある。おなじく串本。稲村邸は、クジラ漁、林業で財をなした商家神田家の別邸(登録有形文化財)。明治4年、串本町稲村の海岸に漂着したスギの大木一本(幹回り5メートル)を挽いて、書院座敷二間と建具、家具がつくられた。

 漂着物よりものの博物誌』は名著
 海の中道、志賀島(福岡市)から盾崎、草崎、津屋崎(福津市)の浜辺で永年、渉猟してきた記録が『漂着物よりものの博物誌』(西日本新聞社)だ。著者の石井忠は国学院大の史学科卒。地元の養護学校に務めながら海に通い詰めた。
 1977年の刊。古書店で入手にして以来、一度は著者の通った浜をあるきたいと思ってきた。
 むかしのビーチコーミングはきびしかった。
 玄海沿岸では、「灘ばしり」、「浜歩き」という言葉が残っている。アナゼ(北西の風)が吹く冬の荒れた日には、カワハギ、ハコフグ、キンメダイ、タコ、ときには体長1メートル、大きなコウイカが打ちあがるため、少年たちは寒風吠える波打ち際に行かされた。魚がひろえないときは、風呂木(風呂の薪)を背負って帰った。
 10キロ超のコウイカに出会えるのは、ひと冬に1匹、よくて2匹だ。ここぞという強風の翌日は、村人が浜辺のあちこちに。たまたまひろえた著者は胴の部分を近所の20軒に配り、残りは1週間かけて刺し身、煮つけ、塩焼き、てんぷら、塩辛、干し物にし、家族でたべた。
 三つ目の目標、石井の現場にはたどりつけなかったが、百道浜ももちはまで打ちあがったボラで、自らを慰めた。
 同書に谷川健一が「序」を寄せている。美質をくみとった名文だ。紹介したい。
「石井さんのやり方は、学問的と称するあやしげな図式を机上にもてあそぶ輩とはまったくちがっていて、つまり自分の居住地に近い海岸を毎日たんねんに見てまわり、打ち揚げられた漂着物をしらべるというものであるが、その方法の素朴さによって、いかなるケレン味もない大自然の不断のいとなみをみごとに捉えることができた」
 フィールドが調査に最適地であった。玄界灘に面し、日本海に向かう黒潮がとおるところで、日本最古の海人が発生した土地が含まれている。
「漂着神という言葉もあるとおり、漂着する石や木を神に祀るところは多い。計画的な渡来ではなく、波のまにまに流れ着つくものを、日本人は神とみなしあがめた」
 延命寺(長崎市)の釈迦如来像。肥前松浦郡に流れ着いたものを漁師が網で揚げた。
 浅草寺の縁起もそうだ。観音像が漁師の投網にかかり、本尊として祀られた。
 こうした例は枚挙にいとまがない。
「日本文化の基層にかかわる主題が、一地方の、かくれた学徒の無私の努力によって解明されようとしていることは、はじめて石井さんの文章を読んだ時の大きなおどろきであった」
 柳田國男が生きていたら、刊行をもっとも喜んだ一人だと確信する、と記している。
 本書は、漂流物の種別(クジラから人まで)、地名、信仰、過去の記録まで網羅。最終章の「いま玄海は」は、海洋ゴミの報告に多くが割かれ――70年代から顕在化していたことがわかる――民俗学からこぼれおちる領域にも目が届いている。
 巻末の一節が切ない。
「漂着物を求めて海ぞいをたどる、いわば一種のロマンの世界に浸りたかった私だが、その世界もまた現実であった。ひとりひとりの力を超える大きなもの、ある時は企業であり、ある時は行政と呼ばれる大きなものが立ちはだかる現実の世界であった。
 その世界に向かって、私は、今、引金をひきたいのである――。」
 この一文で本書は閉じられている。

 1月から本番を迎えるワカメひろい。冬場の漂流物くらしの中心だ。玄海のソデイカとおなじく同好の士、つまり競争相手も多い。
 これはまた別の機会に。もうすこし、おつきあいください。

百道浜に打ちあがったボラ
ウツボを拾う地元の子ども(由比ガ浜)


著者プロフィール
和賀正樹(わが・まさき)
和歌山県新宮市のうまれ、そだち。早稲田大学教育学部卒。文藝春秋に入社。雑誌、書籍の編集者を長年するも、ベストセラーとは無縁。旅先のスリランカで「タミールイーラム解放の虎」、中国で長春市警察により身柄拘束をうける。ただいま神奈川大学国際日本学部で非常勤講師を務めるも不人気で、閉講を思案中。著書に『ダムで沈む村を歩く 中国山地の民俗誌』(はる書房)、『大道商人のアジア』(小学館)、『熊野・被差別ブルース 田畑稔と中上健次のいた路地よ』『これが帝国日本の戦争だ』(ともに現代書館)。  

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